愚か者だとため息つく態度の哀しさ、工夫・挑戦に驚き面白がる態度の嬉しさ

「バカなやつは教えようが何しようがバカのままだ」といった、人間の能力は生まれつき決まっているという意見に、私は猛反発してしまう。なぜだろうと考えると、もしその考え方をすべての大人がとったとしたら、若い頃の私は救われないままだったろう、と思うからだ。

若い頃の私は、それはそれはバカだった。まだ不良だったら進む道間違えてるだけで、能力の有無まで否定する必要はない。むしろ不良やるには頭がよくなきゃダメなくらい。しかし私はクソ真面目だけが取り柄?で、本当に能力がなかった。勉強ダメ、運動ダメ、人付き合いダメ。性格悪い。取り柄なし。

けれど私は人に恵まれ、ポイントポイントでターニングポイントを迎えた。私は変わることができ、かつての私からは想像もつかないほど変わった。その変貌ぶりは結婚披露宴に表れた。新郎側からの挨拶は、ことごとく新郎をこき下ろすもので、新婦側からざわめきが聞こえてくるほど。

参加した友人知人は「あんなに新郎をボロクソに言う披露宴は初めてだ!」と笑うくらい。私の不器用ぶり、愚か者ぶりは、中学三年になる直前までずっと続いていたし、変わり始めても変な奴として、博士号を取る年齢になっても過去の愚かさを引きずっていた。

そんな私が、時間こそかかったけど変われたのは、私が変わると信じてくれた人、祈ってくれた人がいたから。そうでなければ私は、愚かな上にいけ好かない、実にイヤな奴なというだけで終わったろう。(イヤな奴、は、いまだに変わらんやんけ、と突っ込んでくる人がいそうだけど)。

だから私は、子どもを愚か者扱いし、見込みがないという接し方に猛反発するのだろう。もしそんな大人ばかりだったら、私は確実に救われていないから。愚かなままだったろうから。何より、心が救われなかったろうから。しかし私は人に恵まれ、ポイントポイントで救われた。

だから、大人の接し方って大切だと思う。「接し方」としたのはワケがある。教えるとか、働きかけるとか、大人が能動的になることは逆効果のことが多いから。子どもが能動的になることこそが変わるきっかけとなり、大人は接し方を工夫することで、子どもの能動性が発揮されやすいようにするだけだから。

しかもその接し方とは、能動的なものではなくむしろ受動的、「引く」感じ。この子は変わる力がある、と信じる(祈る)。しかしその力を引っ張り出そうとか余計なことをしようとはせず、その子自身が変わろうとする力を信じ、祈り、待つ。そうした接し方。

その子がもし、昨日までやったことのない挑戦、工夫を始めたら「お?」と気づき、驚いてくれる大人がいたら、子どもは嬉しくなる。今の工夫、挑戦に気づいてくれた、驚かすことができた、という喜びが。それが能動的になるきっかけになる。工夫が楽しくなり、挑戦することが恐くなくなる。

私は愚かだったので愚か者扱いされてきた。何をやっても人よりヘタでうまくいかず、比較され、何をやってもダメだと嫌気がさしていた。でも、私がどれだけ遅れているかを気にせず、人と比較せず、昨日までしたことのなかった挑戦や工夫があるとそれに気づき、驚き、面白がってくれる人がいた。

私の工夫、挑戦に気づき、驚き、面白がってくれる人がいる。それにより私は人と比べて見劣りする自分をけなす「呪い」から少し解放され、徐々に、少しずつ、挑戦すること、工夫することを楽しめるようになった。人と比較するのではなく、自分の変化を楽しめるようになってきた。

そう、私は私のことを他の子どもと比較して愚かだと見なされること、何をやっても人よりヘタで不器用だと見なされ、ため息をつかれたり笑われたりバカにされたりすることにウンザリし、辟易し、やる気を失っていた。変わりたいのに変われない。変わったところで人より愚かだとバカにされるのだから。

でも、私を人と比較せずに見てくれる人がその時々に現れた。昨日まで私が取り組まなかった挑戦に気づき、驚いてくれる。それまでしたことのない工夫に気づき、驚いてくれる。人がすでにしてるものであっても、それが私にとって初めての取り組みなら、それに気づき、驚いてくれた。

そうした「接し方」をする大人や先輩、同級生などに出会うことで、私は挑戦すること、工夫することを楽しめるようになり、徐々に変わることができた。意欲を取り戻すことができた。そういう大人になりたい、と私は思うようになった。

愚かな者は愚かなままだ、と吐き捨て、心理的に見捨てる言葉や態度に接すると、かつて不器用だった私が、愚かでしかなかった子どもの私が、大人からため息つかれて、嗤(わら)われている時の情景がフラッシュバックして、許せなくなるのだろう。猛反発してしまうのだろう。

私は子どもの頃、ニコニコ笑って見ていて欲しかった。何か挑戦したり、工夫したりしたとき、それに気づき、驚き、面白がって欲しかった。ちょうど幼児が「ねえ、みてみて」と言いながら、それまであまりしたことのない挑戦や工夫をして、大人を驚かそうとし、それに大人が笑顔で応じるように。

なぜ大人は引っ張り上げようとするのだろう?他の子と比較し、ハッパをかけようとするのだろう?比較されてやる気を出すのは、何でも一番でないと気が済まない、大概のことは一番で済ましてきた優等生にしか起きない現象なのに。優等生でも多くはその接し方だと疲れ、脱落していくのに。

人と比較する必要なんてない。たとえほかの子と比べて歩き出すのが遅くても、言葉を話すのが遅れても、「いま、立ったよね?立ったよね?」「いま、言葉話したよね?あれ、言葉だよね?」と気づき、驚き、喜んだはず。何か変化があったらそれに気づき、驚き、面白がる。

そんな大人が一人、そばにいたとしたら。その子は工夫すること、挑戦することの意欲を失わないように思う。これは幼児の間だけではなく、ずっと続くもののように思う。なんなら死ぬまで続く欲求かもしれない。自分の工夫、挑戦、変化で人を驚かせたいという欲求。

人をバカにし、見下し、呆れるように首を振り、お前はダメだ、見込みがない、なんてこと言って子どもを絶望の淵に追いやるようなことは厳に避けてほしい。私は何度もそれで悲しい思いをした。いまだに私の心の中は、愚かで不器用な子どものまま。見下す言葉、姿勢を見ると、悲しくなる。

その子がどれだけ伸びるかはわからない。なんなら伸びなくてよい。ただ、その子が笑顔でいられて、物事に変に臆病にならず、恐れず工夫し、挑戦し、それを楽しめる子であれば。ただしそうして楽しんでいれば、不思議と子どもは劇的に変わる。成長する。

変に大人が引っ張り上げようとしたり、期待したり、他の子と比較したり、励ましたり、罵ったり、叱咤したり、ほめたりして動かそうと、大人が能動的になるとき、子どもは萎縮する。工夫すること、挑戦することを楽しめなくなる。何をしても人より劣っているとみなされ、けなされるから。

その子をまずはあるがまま受けとめて、ニコニコ見ていて、何か挑戦したり工夫したりしたら「おお」と気づき、驚き、面白がってくれる、ただそれだけでよいのに。そうすれば子どもは能動的になり、工夫や挑戦を続け、変わり続けることを楽しめるのに。

大人は「受動的」であってほしい。子どもが能動的であることを楽しめるように。子どもが能動的になったとき、それに気がつき、驚き、面白がる反応機。驚き屋。
そうすれば、自分の不器用さ、愚かさを嘆き、自分を呪う悲しい子どもの姿を見ずに済むように思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?