株主資本主義は、焼き肉で生肉を貪る子どものようなもの

アダム・スミス「諸国民の富」を読み始める前、少し身構えていた。「神の手なんて言い出す人だし、きっとルールなんか全部取っ払っちゃってルール無用のデスマッチをやりゃあいいんだ、みたいな内容かな」と。恐る恐る読んでみたら「あれ?経済のあらゆること書いてる?」

戦前の自由主義、そして最近の新自由主義は、スミスのほんの一言「見えない手」(いわゆる「神の手」)を超拡大解釈し、それを唯一絶対の方針みたいに言ってるけど、スミスはそんな単純化できる人ではない。むしろスミスの「見えない手」は、老子の「大国を治むるは小鮮を烹るがごとくす」に近い。

老子のこの言葉は、「小さな魚の煮付けを作ろうと思ったら、あんまりいじっちゃダメだ。煮崩れしてしまう。大国を治めるのも、小魚を煮るのに似て、あんまり細かく口出しするのはよくない」という意味だ。実はスミスの「見えない手」も、同じ文脈で語っている。

スミスが生きた当時のイギリスは重商主義といって、国が商売にむちゃくちゃ関与していた時代だった。スミスはその口出しの多さに対して「煮崩れするからあんまりいじりなさんな、口出しし過ぎなさんな」と抑えた、という文脈。

あんまりいじり過ぎてはダメだけど、新自由主義の言うような「ほっとけ」ともまた違う。小魚煮るために鍋には入れるし、火もつける。水も入れれば味付けもする。必要な関与を、老子の言葉でもやってるのがわかる。それはスミスもそう。

新自由主義の主張は、スミスの片言だけを拡張し、スミスの他の部分を否定しているようなもの。スミスは新自由主義に収まる小さな人間ではない。

新自由主義は、小魚の話で言えば、味付けは規制だ!水も入れるな!火にもかけるな!鍋にも入れるな!すべて規制だ!緩和しろ!と言ってるようなもの。

塾を主宰してるとき、子どもたちを連れてバーベキューをした。するとそのうち3人ほどが生肉平気で、網に肉を乗せたそばからみんな食べてしまう。ウェルダン派の、よく焼けた肉が好きな子どもたちは、このままでは一つも肉を食べられない恐れがある。そこで私は。

「お前ら生肉が好きなヤツは、端っこに肉を置くからそれを食え。網の真ん中に置いた肉を食うのはまかりならん」とルールを告げ、ようやく、子どもたちみんながしっかり火の通った肉を食べられるようになった。

新自由主義、株主資本主義のまずいのは、いわば「生肉平気」な子どもたちと似ている。

もし新自由主義、株主資本主義の人達が言うように、生肉平気な人間に有利な「規制緩和」をしたら、網に肉を置くのを待つどころか、パッケージされたままの生肉を食べかねない(実際その子らはそれをやりかけた)。もしそれを私が放置したらどうなっていただろう?生肉好きな子だけ満腹に。そして。

焼けた肉しか食べられない子は、空腹に陥ったろう。その子らは生肉派のその子らを恨むだろう。場合によっては、違う場面で報復を考えかねない。生肉が平気、という有利な性質を利用して、好きなだけ貪らせれば、格差は拡大し、不満が蓄積し、それが社会不安につながる。

ある程度、生肉派を抑え、焼肉派もありつけるような関与は必要となる。しかし、箸の上げ下ろしまで細かく口出しする必要はない。肉の枚数を公平に食べさせる必要もない。肉が苦手な子もいるのだから。むやみな格差が起きないようにだけ目をみはり、必要最小限の関与をする。それが大切。

私の発言を「反資本主義」と感じる人がいるらしい。なるほど生肉派な株主資本主義の人たちからすれば、「株で荒稼ぎして何が悪い」(生肉のうちに食べて何が悪い)というのだから、規制に感じるのだろう。しかし私は、無茶な格差は放置すべきでないと考えている。放置すれば結局、恨まれるのは生肉派。

憎しみが生まれるのがはっきりしていたら、それを未然に防ぐ。それは知恵だと思う。株主資本主義は、今、行き過ぎている。生肉を貪り過ぎて、焼肉派の労働者のところに肉が来ない。やりすぎ。

しかし生肉派に焼けてから食え、というのも無理。生肉好きなんだから。ならば、規制する側の出番。

生肉が好きな人間は生肉が食えるよう、一部を割く。しかし焼肉派が肉にありつけるよう、生肉派が焼肉に手を出すのは規制する。肉嫌いな子に肉を強制することはしない。そうしたマイルドな規制は、結局は生肉派への憎悪が高まるのを回避するためにも重要。規制はむしろ、生肉派を保護するため。

私はそうした修正資本主義の立場。規制だらけの、始皇帝の秦みたいな国はまっぴら。しかし生肉派が好きなように蹂躙し、むさぼり食うルール無用も願い下げ。できるだけ多くの人が楽しく暮らせる状態が好き。その状態を目指すのが目的であって、ルールをどうするかは手段でしかない。

しかし新自由主義の人たちは、ルールこそ目的であるかのように言う。まあ、自分だけ貪りたいなんて真の目的いうと流石にまずいとわかっているからだろうけれど、ルールはできるだけない方がいいんだ、と、やたらルールを敵視する。それでいて、株主に有利なルールはちゃっかり作るんだからひどいもの。

私は、スミスの言う「見えない手」は、老子の「小鮮を烹る」と同じ意味で捉える。あまりいじっちゃダメ。だけど小魚のワタはとり、ウロコをとり、水洗いし、鍋に入れ、水を足し、味付けして、火にかけている。必要な手はきちんと入れている。スミスの言いたいのは、煮出したらいじるな、というだけ。

煮魚が不味ければ、魚の前処理を変えてみる、水の量を調整してみる、調味料を変えてみる、火加減を工夫してみる、というのが必要。しかし株主資本主義の人たちは、生が平気なものだからそんな工夫はいらん、と言う。スミスはそんな人ではないと思う。ちゃんとした煮魚が食べたい人だと思う。

生が平気な人には生魚を2、3あげて、残りを全部煮魚にして、他の人に配ればよい。そして煮魚を煮るときは、あまりいじらない。スミスの「見えない手」は、煮魚を煮崩さずに煮る上手な料理人の「腕」のことだと思う。

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