教師の能動性より、生徒の能動性

よい授業、わかりやすい授業が子どもの学力を上げるかというと、そんなことはない。肝腎なのは、子どもが受け身ではなく能動的に学ぶか。
私はもともと勉強ができなかった子だったため、勉強できない子に説明する力に自信があった。実際、子どもたちは「ものすごくよくわかった!」と感動。

で、その場ではできるようになる。ところが翌日になるときれいさっぱり忘れている。「理解できたと感動したことは覚えている」と言うが、肝腎の中身はさっぱり。もう一度説明すると、「ああ、わかったわかった」と言って、また解けるようになるのだけど、翌日になったらきれいに忘れる。

わかりやすい説明、素晴らしい授業をしても、その場では子どもたちはわかるのだけど、全然子どもたちの頭に残らない。どうしたものか、というのが悩みのタネだった。そんなとき、高校の母校へ教育実習に行った。

普通は、授業をどう進行させるか、シナリオを綿密に書かなきゃいけないのだけど、指導して下さる先生がおおらかな方で、任せてくれた。私はラフスケッチだけして、授業に望んだ。化学反応でどれだけの熱量が出るか、方程式の解き方を教える内容。ところが。

導いた化学式が、手元にある答え通りにならない。どこか計算間違いしたのは間違いない。ここなら普通、慌ててしまうところだが、以前から試してみたかった「実験」をこの際、やってみようと思い立った。
「どこを間違っとるんやろ?誰か分かる?」生徒達に問いかけた。

クラスの中がざわついた。教育実習生がまさか計算間違いするとは。ましてや京大生って言ってたはずだけど?いろんな風に思っとるだろうな、と感じながら、隣に話しかけてる子がいたので、「そこだけで話さんと、先生に教えてよ。どこ間違っとる?」生徒はおずおずと、指摘してくれた。

ところがまだ計算が合わない。「違う違う、そうじゃない」という声が2、3聞こえる。「え?また間違っとる?どこか教えて!」そのうち、生徒達があれこれ発言して、どこをどう間違ってるか、指摘してくれた。間違ってから10数分かけて教科書通りの答えが出た。「できた!みんなありがとう!拍手!」

クラス全員、万雷の拍手。隣の教室の先生がビックリして覗きにきて、ペコリと謝った。
授業のあと、指導担当の先生が「あれを狙ってやれたのだとしたら、大したものだな」と、慰めてくれたのやらほめてくれたのやら。

終わりに色紙を生徒達がくれたのだけど、「高校生活で一番面白い授業だった」と書いてくれてる子がいた。その後、指導担当の先生から、定期テストがあり、「化学方程式、ふだんは正答率が低い分野なのに、あのクラスはみんな解けてたよ」と教えてくれた。

そうか、わかりやすい授業、素晴らしい授業は、受け身だから身につかないのか。頭に残らないのか。ところが私のように頼りない先生だと「俺たち、私たちが教えて上げなきゃ」と能動的に考えたから、生徒は自ら考え、理解し、身についたのか。

教師はついつい、自ら最高のパフォーマンスを発揮しようと努力する。けれどおそらく、そのパフォーマンスが素晴らしければ素晴らしいほど、子どもたちの頭には残らない。抱腹絶倒の漫才を聞いて大笑いした翌日、楽しんだ記憶はあっても、何を話していたかは全く説明できないように。

大事なのは教師の能動性ではなく、生徒の能動性。生徒が能動的に課題を考え、クリアしたくなったとき、受け身の時には有り得なかったほど頭がフル回転する。いろんなことを考え、ああじゃないかこうじゃないかと迷い、仮説を立てる。その過程を能動的に体験することで、学習は身につく。

不思議なもので、うまく行かずに困っているのを見ると、人間は「ああした方がいいのに」と、ヤキモキするようにできてるらしい。そして教えたくなるらしい。教えようとすると、理解が急速に進む。私の「間違った授業」は、たまたまだが、そうした効果を上げたのだろう。

授業は、教師のパフォーマンスを最高にしようとしてしまうが、おそらくそれはむしろよくない。子どもたちが能動的に頭を働かせ、身を乗り出し、口を出したくなる授業、たりないところを生徒達に補ってもらう授業の方が、身につくのではなかろうか。

先生が素晴らしい授業をすると、生徒達には身につかない。そんな皮肉な現象があるのかもしれない。先生だけが能動的な存在となる授業では、生徒は受け身となる。逆。先生が受け身で生徒が身を乗り出す能動性を発揮した方が、より身につくのではないか。

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