子どもは失敗して、仮説を立てて学ぶ
なに、この「英語を学ぶにはまず文法から」みたいな記事。英語に親しむには、文法忘れてともかく話すことから。時計も同じ。この記事読んだ親御さん、難しく考えすぎて、かえってお子さんが時計を苦手に思うんじゃないかな。記事書いてる人、リクツに走りすぎのように思う。
https://toyokeizai.net/articles/-/539777?page=4
我が家には針時計しかなくて、親が「いま、4時12分か」とか言ってるうちに、子どもたちのほうがだんだん見当つけて、時間を読めるようになっていった。「どうやら親は、短い針のほうで「じ」を読んでるらしい」「「ふん」は長い針の方らしいけど、どうも細かい点の数を読むらしい」と。
そのうち、「いま、3時5分でしょ?」とか、仮説を立てて時間を言い当てようとし始めた。間違うこともあったけど、仮説を立てて、「こうではないか」と試そうとするその意欲に驚いた。そんなやりとりを繰り返していたら、子どもたちは時計を読めるようになっていった。
記事を書いた人物は、確かに時計を読むために必要なリクツを丁寧に言語化してはいる。しかし、言語化したリクツをそのまま子どもにコピペしなければならないんだな、という誤解を与えかねないというところまで配慮ができていない記事のように思う。文法教えて英語嫌いにするようなもの。
私は、子どもの「仮説を立てる力」にもっと任せてよいと思う。まだ息子が言葉を話し始めた頃、私が帰宅すると「ただいま!」と声をかけてくれた。本当なら「おかえり!」が正しいのだけど、息子は「誰かが家に入る時には「ただいま」という」という仮説を考え、それを実行したのだろう。
YouMeさんが「おかえり」と声をかけてくれることで、次第に息子は「自分が家にいて、誰かが家に入ってくる場合は「おかえり」というらしい」と仮説を修正して、息子は「おかえり」と言ってくれるようになった。このように、教えなくても子どもは自動で修正する力がある。
「正しく教えよう」とすることには、一つ、大きな弊害がある。失敗を恐れるようになるということ。正確にできなければならない、という恐怖を植えつけること。こうした恐怖、不安があると、人間はそれだけで精神的なエネルギーを奪われるようで、それが学習意欲を長期では失わせることになるようだ。
私は、間違いから、失敗から学ぶほうが楽しいと考えている。子どもは最初、時計の読み方を大いに間違う。長い針と短い針の区別もつかない。それはそれで「ああ、針の長さで違うということにまだ気づいてないんだな」という発達の段階を窺う機会になる。そして次も間違うけど、針の長さには気づいたり。
子どもたちは、ああではないか、こうではないかと仮説を立てては、試してくる。そのつど、私は「ほほう!そういう仮説を立てて挑んできたか!」と驚かされた。次第に仮説の精度が上がっていって、時計の読み方を自然にマスターしてしまった。
時計の時間をすっかりマスターしてしまった頃、子どもに「どうやって時間を読んでるの?」と聞いてみた。「短い針が通り過ぎた数字が何時、長い針が指してる細かい点の数が何分」と、適切に説明してくれることに驚いた。私はろくに時計の読み方について教えていないのに、試行錯誤の中でマスターした。
そしてどうやら、試行錯誤して自ら仮説の精度を上げていくという学び方の方が、リクツも頭に入り、リクツを言語化して説明する力もつくらしい。おとなが細かく言語化して子どもの脳に移植しようとすると、こうはいかない。幼い子どもにそれを受けとめる用意ができてないから。むしろ混乱を招く。
どうやら、失敗を楽しみながら、失敗を重ねながら仮説の精度を上げていくという学び方は、子どもの脳に複雑な思考を育てることになりやすいらしい。教える以上に頭を使い、物事を整理して理解する力が育つ。教えるよりもはるかに脳の発達を促すらしい。
記事を書いた人物は東大出てるらしいから、ご自身は勉強がよくできたのだろう。でも、申し訳ないが、子どもの発達というところを勘違いされてるように思う。教える側は、なんなら無知でも構わないと私は思っている。その代わり、子どもが何度でも失敗する事を許容し、試行錯誤する様子を楽しめば。
子どもは勝手に仮説の精度を高めていくという形で学んでいく。成長していく。この場合、大人の側にそんなに能力は必要ない。子どもの挑戦意欲に驚き、喜んでいるだけでよいのだから。親に過度な能力を求めるのは、間違っているように思う。
こう言ってはなんだが、時計を読むということの理屈を細かく書くことで「オレは東大だからこんなにも細かく言語化できるんだよ、親のあなたはできてないだろ」という自慢めいた物を記事から感じる。早い話、なんだかいやらしい。学歴を鼻にかけてる感が否めない。
「時計の読み方を教えるのに、こんなにも細かく理解しなければならないのか」と親を不安にかきたて、「だから我が塾に預けなさい」という誘導感も感じる。そこもなんだかいやらしく感じる。
そんな細かいリクツ、親がわきまえる必要はない。子どもの察する能力を信頼し、失敗をたくさんさせればいい。
失敗を重ねる中で、子どもは学んでいく。仮説の精度を上げるコツをつかむ。親は、子どもの仮説がどんどん変化していく様に驚いていればいい。それだけで子どもは成長していくものだと思う。
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