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リスナーに出来る事の「その先」

さあ今日も日記のテイを取った座談をしよう。まあポッドキャスターであるならば録音して番組になんて…。高尚過ぎる。自分にとっては。

目的や意味がハッキリしていないと体が動かない事が多い。「恋愛のゴールは結婚なのか」論争にも似たような感じだと思い始めている。様々な意見が飛び交っているが、まあ気にしない。タイパを遠目から蔑んでおいてよく言ったもんだと自分で納得し、少しだけ落ち込む。

「僕にできることを」

野上良太郎の名台詞として有名だ。
(確かこんなんだった気がする)

この環境を守るために自分に何ができるか。
(“君できるなにか”が今度は浮かんだ。)
「リスナーとして、何が出来るか」
「ラジオ・ポッドキャストのリスナーとして出来ることは何か」

無論聴くことは一歩目。
感想ツイートが二歩目。
番組へのお便りが三歩目。
…さて、あとは…?

「目的」が無ければ、趣味とは言えないのか。
「意味」が無ければ、飲み会しちゃ駄目なのか。

贅沢を言うと、誰でも始められるポッドキャストにおいて、「終了」が残念な時がある。

「諸事情」に全て集約されるわけだが、休止とかに出来ないのかな。とか考える。大口を叩くとすれば、「(代われるなら)自分が代打を務めたい」とまで思う。ヘビーリスナーであることの自負か。
それだけポッドキャストは自分の構成要素になりつつある。足裏マッサージに行って、薬指と小指の付け根に激痛が走るくらいには聴いてるから(そこが“耳”のツボらしいです)。

先日、ポッドキャスター新年会なるものに誘ってもらった。前述してきた通り、自分はポッドキャスターではない。リスナーだ。誘われた事に感謝をすると同時に、その場にいながら色んな感情が渦巻いた。

ありがたいことに色んな話が聞けた。こちらも直接感謝や感想を伝える。これが前述してきた事で言えば「四歩目」に当たるのだろう。ポッドキャストにおけるリアルイベントはこれを行うのにうってつけだ。

各番組さんのポッドキャストの裏話に始まり、全く関係ない事まで。番組の垣根を超えてというより、垣根を取っ払った「友達」や「いつメン」と表現する方がいた。

こういう空間においても、いつの間にか自分はリスナーになってしまう。というか戻る。ポッドキャスターさんの集まり。当然ながら「回す人」がいる。そのうちどんな話題になろうと自然と「ほぉ〜」とか「へぇ〜」とか「ウンウン」とか“しか”言わない自分がいる。まさにウッキー族。リアルに会っても気づくと聞き手。この状況を「スペースのリスナー化現象」と呼んでいる。でも、なんだかんだでそれが気持ち良い。その環境・空間が心地良い。

またまた大口を叩くが、自分は「こういったもの」を“守りたい”んだなぁとも思う。

リスナーとポッドキャスターの距離感を最近気にし始めている。近くて良いのか、遠すぎやしないか。あるべき姿は。リスナー像とは。こういった事で迷い倒すくせに、今居る場所や空気感は守りたいといっちょ前なのだ。そしてふと思った。

リスナーがリスナーしてるうちは、無理だ。
見切り発車でもポッドキャスト、やろう。
少しずつ、継続する中で変えていけば良い。多分。

そうやって「こちら側から返せるもの」を増やして行こう。

イベントの環境づくりを手伝ったり、リスナーの窓口的な役回りが出来れば良い。最上級は自分の番組を始めることと、コラボでなく代打要因として呼ばれることかな。

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