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濁浪清風 第43回「場について」⑬


 大悲とは、「如来の無縁の慈悲」であるという。しかし親鸞は、天親菩薩の『浄土論』の「回向為首得成就大悲心故」(回向を首〈しゅ〉として大悲心を成就することを得るがゆえに)という「回向門」の言葉に着目した。この大悲心は、『浄土論』の展開として一応は、五念門(ごねんもん)を修行して浄土に生まれて往(い)こうとする存在に課せられた問題である。しかし、大悲とあるのだから、曇鸞の教示をくぐったからには、「衆生縁」しか感受できないような衆生、つまり善男子善女人(ぜんなんしぜんにょにん)の起こし得る心とは言えない、と親鸞はいただいた。一切の善男子善女人を浄土の功徳に触れしめようとする「大悲回向」の心、それは如来の分限にのみ可能な心に相違ないのだ。それを『無量寿経』には法蔵菩薩の永劫(ようごう)の修行と語っているのである、と。

 五念門の第五番目の回向門を天親菩薩は「利他」であり、それに先立つ四門は「自利」であるという。しかし、自利を成就して利他が成り立つし、同時に利他を成就してのみ自利が成り立つのだと、繰り返して押さえられている。だから五念門は、一歩一歩、未成熟の菩提心を、時間をかけて成熟させていくということを表すものではない。曇鸞が言っているように、菩薩道の十地(じゅうじ)の展開は、この世の人間に教えるために、一歩一歩進展するように説いているにすぎないのだ。

 ところが、このことをわれらはとても理解しがたい。われらの日常は、時のなかに少しずつ変化したり、熟成したりすることを生活内容としている。一気に、時を破って大木が出てくるなどという『浄土論註』の譬喩(ひゆ)は、ほとんど神話としてしか理解できない。これを如来が果上の功徳を因位(いんに)のわれらに付与することを表すのだということは、いったい何を語ろうというのか。無縁の慈悲にしろ、他力の回向にしろ、この世の因果しか体験できないわれらには、とても考察不可能なのではないか。

 ここに、親鸞が出遇(であ)った他力の救済の不可思議さがある。実はこれは、われらのこの日常の経験の根底にある「不可思議」なる事実に目覚(めざ)めよと、いうことなのである。これを空間的に表現するから、この世の時間空間ではない「彼(か)の土」というほかないし、これを生み出す力を努力として語るから、法蔵菩薩の永劫の修行というしかないのである。だから、浄土の荘厳(しょうごん)とは、われらの存在の背景ともいうべきことを、われらの根源の場所として、表現しようということだったのではないか。

(2006年12月1日)