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手っ取り早く答えを求める流れに感じる危うさ

僧侶が悩み相談をメールで受けるサイトを手伝っているのだが、ちょっと心配なのが、「なんのために生きるのか?」「どう生きたらいいか教えて欲しい」「なんのために生きたらいいか教えて」というものが多いことである。

私も含めてなのだが、現代人は「答え」ばっかり欲しがっていんだなということをあらためて思う。大事なのはそれぞれ固有の「問い」を見出すことなのに、問いを見出すことには興味がなく、すぐにみんな答えを欲しがる。

他人に出してもらった答えなんて危なっかしくて仕方ない。しかし、そもそも「問いを持つ」「問いを深める」というところに視線がいかない。

もし問うとすれば「どのように答えを求めたらいいですか」とか「どのように答えに近づいていったらいいですか」ではないか。

これならわかる。しかし、人から手っ取り早く答えを出してもらって、そえでスッキリしたいという傾向が最近多いのはすごく怖い。なぜならば、こういう人は、危険な教祖や危険な宗教者の言うこともすんなり信じて、洗脳されてしまいそうだからだ。

現代において「問いを深めること」の重要性を考えることが必要ではないか?

またその一方で、なぜみんな安易に答えだけを求めたがるのか、その社会心理学的理由も考えてみる必要があると思う。

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