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はだかの王様 クロード・シャノン2 日本人技術者の論文との類似性

シャノンの業績のなかには、日本人技術者の論文とよく似たものが2つある。

 

 1.中嶋章のリレースイッチ回路研究

 

OMNI誌のインタビューでは、リレーを使ってブール演算を思いついた背景について質問している。

 OMNI  微分解析機はどんなものでしたか。

 Shannon  主要な機械は回転盤と積分器からなる機械部分で、リレーによ    
る複雑な制御回路がありました。私はその両方を理解しなければなりませんでした。リレー部分に興味をもちました。私はミシガン大学の授業で記号論理学を学んでいましたので、ブール代数を用いればリレー回路とスイッチ回路を制御できることに気づいたのです。図書館に行って、記号論理学とブール代数に関する全ての本を手にし、その相互作用について考えはじめ、修士論文のテーマにしました。これが私の偉大な業績の始まりです。(笑)

 OMNI  あなたはリレー回路とブール代数の関係に気づいたのですね。それはちょっとしたひらめきだったのではありませんか。

 Shannon  いえ、些細なことです。いざわかってしまうと、つながりが大事ではないのです。もっと大切なのは細かな部分、スイッチ回路のトポロジーをどのように交互配置するかとか、端子をつなぐとか(略)

 OMNI Yes/NoがOn/Offのスイッチ回路で表現できるという直観が些細ですか。

 Shannon  「開いている」か「閉じている」か、「Yes」か「No」かというのはたいしたことではありません。大事な点は、2つが直列だと論理学ではANDで表現し、これとこれというのであり、2つが並列であるとORで表現します。(略)

 OMNI しかし、リレー回路とブール代数を結びつけようとしたのは、ひらめきではなかったのですか。

 Shannon うーん、ひらめきとは何か、私にはわかりません。あなたにだって内心のひらめきはあるでしょう。私にもある日それがあったのかもしれない。そしてしばらくの時間は図書館で時間を過ごし、方程式を解いていて、そうこうしているうちによりたくさんのひらめきがやってくる。(略)」

 

このインタヴューは、シャノンが第一回京都賞を受賞して、日本に出張してアメリカの自宅にもどってきてすぐのタイミングで行われている。ひらめきについてのシャノンの対応は、ちょっとアヤシイけれど、シャノンは自分の修士論文を自慢している。日本で自信をつけてきたのかもしれない。

 

シャノンの修士論文は、「今世紀におけるもっとも重要で、もっとも有名な修士論文」と呼ばれたこともある。「リレーとスイッチ回路の記号的解析」というものだ。ところが、これは日本人の論文によく似ていて、1940年には日本人の著者がわざわざ日本から会いに来たこともあって、シャノンの心の片隅にしこりとしてあった。だが45年たって日本に行ったところ、誰もそれを問題にしていなかったことで気を良くしたのかもしれない。

 

シャノンの修士論文が日本人のものと似ているというのは、直列(AND)を +,並列(OR)を x(たすきがけ)で表現していること。また、ON が 0で、OFF が 1と表現されていることだ。これは日本の無線技術者の書き方だ。日本では抵抗値が0のときOnになり, 抵抗値無限大のときOffになるので、1がOFFとなる。これがそのままシャノンの修士論文に生きている。
普通アメリカ人なら、ANDがx、ORが+と表現し、ONが1で、OFFが0となる。なぜアメリカ人のシャノンが、日本的な書き方をしたのか。きちんとシャノンの修士論文を読めば、疑問に思うはずである。

 

実は日本では中嶋章(日本電気)が継電器(リレー)によるスイッチング回路の研究を続けていて、1935年に行った講演録が学会誌に掲載されている。
(中島章、継電器回路の構成理論、電信電話学会雑誌第150号昭和10年9月 P731-752)
シャノンの修士論文は3年遅れて1938年に出たが、中嶋論文への言及はない。

 

中嶋はよほど気になったとみえて、1940年にアメリカ出張してシャノンに会っている。そのときの思い出を亡くなる少し前に学会誌に書き残している。「Switching Circuit Theoryについて話し合ったが,そのときの同氏の若々しい理知的な顔立ちはいまだに忘れられない」(中嶋章 スイッチング回路網理論の思い出,電子通信学会誌1970年12月号 pp 1658-1661)忘れられない理由は,シャノンの論文があまりに自分の論文に似ていたからではないか。

 

2 染谷勲の波形伝送論

 IEEEは1982年7月にシャノンのオーラルヒストリーのためのインタヴューを行った。そこで1949年論文”Communication in the Presence of Noise”の学会投稿が1940年7月23日となっていて、発表が1949年であることについて質問が行われるが、シャノンははぐらかす。

 

その後、実際にその論文を持ち出してきたところで、シャノン夫妻が取り乱す場面が描かれている。

 

IEEE Bob Price「実はここにその暗号化論文があるのですが」

シャノン「いったい君の計画はなんなんだ、ボブ。どうしてそれを、、、」

シャノン夫人「そんなものを持ち出して、何がしたいの?」

シャノン「なぜそんなバカげだことをやるのかい」

(Claude E. Shannon, an oral history conducted in 1982 by Robert Price. IEEE History Center, Hoboken, NJ, USA.)

 

これは京都に行く3年前に行われたインタヴューである。シャノン夫妻は、この論文について深く掘り下げられたくなかったと思われる。

 

植松友彦は「標本化定理は、2007年に亡くなった染谷がシャノンと独立に同時期に発見していた」として1949年に書籍として出版された「波形伝送」を紹介している。(植松友彦「通信の数学的理論」その後の話 - 還暦を越えた情報理論,電子情報通信学会Fundamental Review 4:2, 2010)

 

しかし学会誌に染谷勲の「波形伝送理論」が掲載されたのはその3年前の1946年3月号だった。(染谷勲 波形伝送理論, 電気通信学会雑誌,1946年3月29:3 pp11-15 (昭和21年4月13日受付))

 

染谷の記事に英語訳はついていなかったが、日本は米国占領下にあったことを考えると、誰かが英訳してシャノンのもとに届けた可能性は否定できない。

 

 

染谷自身は「数年して電気試験所第2部時代から一緒に研究をしてきた喜安善市氏にC.E. Shannon氏の論文にSampling Theoremとして式(1)が示されていることを教えられた」と1982年に回想する。(染谷勲 標本化定理のこと 電子通信学会誌 7/82 pp695-698)だが、染谷自身も1946年に学会誌に記事を掲載した事実(シャノンより3年早い)については触れていない。

シャノンの論文が、中嶋章と染谷勲の論文の盗用であったというつもりではない。丁寧に論文を読んでいると、そういう疑問が自然と湧いてくるということを言いたい。

 

大事なことは、自分の頭で考えること。そうすれば、内容に誤りをもつものを読んだとしても、その間違いによって自分自身の意識がゆがめられることはないからだ。

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