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【道元と宇宙】 20 世界初の誤り訂正符号の使用


 

道元の真筆である『祖山本 道元和尚廣録』に
「我が宗は唯語句」とあるのに、
卍山本『廣録』と『略録』には、
「我が宗は語句無し」となっている。

 この異本間の矛盾を、
曹洞宗はどのように考えているのだろうか。
曹洞禅ネットの質問フォームを利用してみた。

 その回答は、
「つまり、そもそも道元禅師の『広録』に2系統在り、
その混在が得丸様をしておかしいといわしめている
ということになります。
(残念ながら、現代の研究では、
どちらの系統がより古い形式を伝えているか、
分かっておりません。一々の語句について、
他の文脈との比較を通して学ぶのみです)」

2系統あって、内容が矛盾していても、
それが現実だから仕方ない、
ということになる。

 『略録』のすべての上堂語や頌が、
明らかに元の道元の言葉に対して改ざんがみられるとしても、
それが現実なのだから受け入れるしかない。
なぜ矛盾が生まれたのかは、考えない。

  

道元は、寛元元年に越前に下向した。
吉峰寺の仮住まいのときは、もちろん上堂していないが、
翌寛元2年7月に大仏寺が落慶しても、
しばらく上堂はなかった。

寛元3年(1245)4月15日の夏安居開始の日の上堂語127が、
大仏寺語録の冒頭である。
続く上堂語128のなかで、
道元は「我が宗は唯語句」という言葉を発した。

  

 実は道元は、仁治3年(1242)に深草・興聖寺で行った
上堂語91のなかで、
「我、仏を得来りしより、
常に此に住(あ)りて、法を説く。
道(い)ふ莫(なか)れ、我が宗、語句無し、と」
と語っている。

 
道元は「我が宗は語句無しと言ってはいけない」と
弟子たちに注意していたのだ。
道元の教えにもかかわらず、
「我が宗は語句無し」と言い続ける弟子たちとの
後世にまで続く闘いを意識していたであろう。

 
曹洞禅ネットの真実は、まさに道元が予見した通りだ。
弟子に自分と同じだけの
情熱や悟りを期待するだけ無理というもの。
自分で何ができるかを考える必要がある。

 自分の教えが将来も変わらずに伝わるには
どうすればよいのか。上堂語131で道元は、
仮想的な質問を立て、自ら答えた。

 「もし是大仏ならんには、
人の、従上、古人、何なる法を将て人に示す
と問ふこと有らんに、
即ち他に向ひて道はん、他家の鼻孔は他家穿つ、と。
又、後代の児孫に何を将て伝授せん
と問ふこと有らんに、
即ち他に向ひて道はん、自家の鼻孔を自家牽く、と。
又即今の関捩子又且如何と問ふことあらんには、
即ち他に向ひて道はん、一人虚を伝ふれば、
万人実として伝ふ。」

 

現代訳:
もし私(大仏)であれば、
「古の人はどういう真実を人に教えてきたのでしょう」
と訊かれたら、「人のことは人がする」という。
「これから先の者には、何を教えたらよいでしょう」
と訊かれたら、「自分のことは、自分でする」といってやる。
「今は何が問題で、それをどうすべきでしょう」
と聞かれたら、
「誰かが嘘を伝えたら、
その後の人は皆それを真実として伝えることだ。」

 この時点で、道元は問題点を認識し、
この後何年も悩み続ける。

 

 それから6年後、建長3年の冬。
『廣録』は上堂語の最後の巻、巻七に入った。
道元は自分の死を意識している。

 上堂語473 上堂に云く。
嵩岳(すうがく)の高祖云く
「我が滅後八千年、我が法、
糸髪(しはつ)の如く許りも移らず、
我が在世の如くならん」と。
我が仏如来道(いわ)く
「滅後遺法(ゆいほう)の弟子を
蔭(おお)わんが為の故に、
白毫一相(びゃくごういっそう)の
功徳を留め在(のこ)す」と。
又云く
遺法の弟子を利益せんが為の故に、
二十年の仏寿を留め与えて弟子を蔭覆す」と。
今日、永平、偶(たまたま)一頌(いちじゅ)あり。
良久して云く、
臘月(ろうげつ)の寒梅月光を含む。
雪山(せつざん)の雪の上に更に霜を加ふ。
如来の毫相(ごうそう)、猶(なお)、今在り。
遠孫(えんそん)を利益する、
豈(あに)、度量(たくりょう)せんや、と。

 

現代語訳:
嵩山におられた遠い先祖の達磨大師は、
自分の死後八千年たっても、
自分の会得し伝授する理法は
絹いとや髪の毛ほどの変容もなく、
私の生きている今と同じであるだろうと言われた。
私の本師仏如来は、言われた。
死後、私の残して行く理法を信じ、
そのために精進努力する弟子たちをかばいたいので、
そのために、
私は私の三十二相のうち
白光を放つ眉間の毛を留めおこうと。
またこうも言われた。
その弟子たちの為になり、
かれらに役立つことあれかしと願って、
そのために、二十年だけ、
私の寿命をおまけとしてこの世に遺して、
かれらをかばい、守ってやろうと。
今日、私は、どういう巡合せか、
讃め歌を一首ここに持っている。
しばらくしてから言われた。
今は十二月だ。
寒さの中に咲き匂う梅の花に、
月の光がこもっている。
雪積む山の、雪の上にさらに霜を加えた。
なんという浄く、冷く、微妙な光景か。
釈迦如来の三十二相の一つの
その眉間の毛は今なお現世にとどまり、
はるかのちの子孫の為に役立っている。
その利益の程は到底量り知れるものではない。

 

 『眼蔵』と『廣録』を、
未来の弟子に一言一句誤りなく伝えたい道元は、
自分のテキストを改ざんや偽書から護るための
「白毫一相の功徳」を模索し続けた。

そして、
「雪の上にさらに霜を加え」る
ことを思いついた。

 

それはとても大切であるから、
建長4年の盛夏の上堂でも、
同じ言葉を繰り返している。

 
上堂語507は
準書状、懐鑑上人の忌辰のために上堂を請す。
老鶴、雲に巣ひ、眠りいまだ覚めず。
壺氷、雪上に、更に霜を加ふ。
報地を荘厳する豈他事ならん。
少一炷の香を薫修するあらん。

 且道へ。衲僧の分上、今日又作麼生。
良久しくありて云ふ。
言ふを休めよ、彼岸は目前の外と。
柱杖一条、これ橋梁。

 

現代訳:
書記の義準が、
一年前に亡くなった懐鑑の忌日上堂を要請した。
老いた鶴は雲の巣に眠ったままだ。
氷で閉ざされた壺の雪の上にさらに霜を加えた。
私の死後、業績を輝かしいものにするために、
ひとつまみの香を焚かせてもらったというわけだ。

 
私のおかれた立場で今何が言えるか。
彼岸が目の前にないなどと言ってはいけない。
この一本の杖が橋を渡す。

  

「雪の上に更に霜を置いた。」という言葉が、
二度も登場するところが重要だ。
【雪の上に更に霜】
道元はとうとう思いついたのだ。
これは現代デジタル通信技術において、
冗長符号とも呼ばれる
誤り訂正符号である。

 
誤り訂正符号は、
デジタルデータを送信する前に、
データの解析結果や、
一定の規則にもとづいた演算結果を、
データに添付して送信すると、
それを理解している受け手は、
検算を行って、結果が正しければ、
通信回線上でデータが破壊されていないことを
確認できる数論理学的な技術だ。

 

これは、20世紀半ばの技術であるが、
道元は13世紀にすでに使っていた‼
これは驚くべきことである。

  

 

道元は『正法眼蔵』75巻に、
奥書で「正法眼蔵 現成公案 第一」のように、
「正法眼蔵」に続けて巻名と連番を一体表記した。
それに続けて、
示衆日・場所と書写日・場所も書き入れた。

   

こうして、
テーマごとに独立した巻になっている
『正法眼蔵』75巻は、
奥書を使って符号化することができた。

 

 

では、『廣録』テキストの論理性は、
どうすれば符号に変換できるだろうか。
道元はこれに頭を悩ませたはずだ。

 

上堂語475の頌は、
それを思いついた喜びだと思う。

 

修証は無きにあらず、覚道成ず。
何の階級かあらん、暁天明し。
是の時、我等が大慈父、
悦ぶべし、眉毛一茎を添へぬ。

 

現代訳:
修行と悟りがなかったわけではない。
ともかく正しい覚りに基づく智慧が完成した。
どういう階級があるだろうか、
夜明けの空が明るくなった。
我らの慈しみ深い父上は、嬉しいことに、
ご自分の眉間の毛を一本抜いてくださった。

 

 「何の階級かあらん」というのは、
各巻の特徴を数えあげることを思いついて、
さて、何を数えようかと考えているのだ。

 道元は、各巻に収められた上堂語数と、
その中の頌(漢詩)の数を数え上げ、
「上堂五十九、頌古十首」といった具合に
巻末の余白に識語として書き入れることにした。

 そうすれば、後世の誰かが勝手に上堂語を追加や削除するとすぐにわかる。
漢文白文で書いた自分の文章のなかから、
頌を識別することは、
よほど勉強家でないと無理だ。

 これで自分にできることはすべてやった。
後は、誤り訂正符号の知識をもつ読者が、
現れる日が来ることを祈るだけだ。
道元は後世生まれてくる弟子と出会うことを
楽しみにしつつあの世へと旅立った。


 

※頌(じゅ)…漢詩のこと

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