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予想外の2度の南ア出張

 NEAC10で発表した「浜辺のゴミの意味のメカニズム」を聞いてくださった、東京の環境パートナーシッププラザの方から、翌年夏に開かれる国連・持続可能な開発のための世界サミット(UN-WSSD)に参加する日本の環境NGOの事前勉強会に参加してほしいと誘われた。1992年のリオデジャネイロでの国連環境開発会議で採択された「アジェンダ21」の10年後の進捗状況を話し合う「リオ+10」の会議で、南アフリカのヨハネスブルグで開かれるとのこと。

 東京・青山で開かれていた事前勉強会に出てみると海洋汚染の専門家はいなかったので、都合のつくかぎり、顔を出すことにした。でもそれ以上関わり合いをもつつもりは毛頭なかった。そもそも「持続可能な開発」という言葉に僕は疑問を抱いていた。開発するということは自然環境にダメージを与えるわけだから、持続することなんてできないし、いったい何を持続するというのか。僕は何も期待していなかった。

 ところがいよいよ日本のNGOが現地に行くというとき、こともあろうに、ヨハネスブルグから200kmも離れた、アパルトヘイト政策のもとで傀儡国家としてつくられたボプタツワナにあるリゾート都市サン・シティーに宿をとるというのだ。僕はあまりの非常識さに驚き、NGOの幹部たちに抗議をした。ボプタツワナは、ツワナ人たちの国籍を奪うために、1977年に突然独立国家にされたのだ。そこに、サン・シティが建設され、そこは白人たちがギャンブルやストリップなどを楽しむレジャーランドだった。そこを宿泊地に選ぶとは、南アの人たちに対して失礼ではないか。
 しかし、さっぱり話を理解してもらえなかった。仕方なく、僕は自ら志願して、日本から参加するNGOのために宿泊や交通関連の手配を手伝うことを買って出たのだった。

 南アフリカに渡航する人たちのための説明会では、外務省の局長さんが、「南アフリカの治安は最悪で、4歳以上84歳以下の女性は全員レイプの対象になるので、気をつけるように」という現地ブリーフィングがなされた。
 南アフリカはそんな危険な国じゃない。これまでに2回南アを訪れているけれど、治安は悪くなかった。僕は、みんなの不安を解消するため、南アの会議場近辺の治安を下見し、宿泊場所や交通手段の段取りをつけてくることを提案した。

前世は南アだった

 WSSDのためにヨハネスブルグに2週間の出張を2回した。1回目は下見。
 下見のために日本から到着した日、JVC日本国際ボランティアセンターの津山さんが予約してくれたヨハネスブルグ天文台近くのB&Bに泊まった。翌朝目が覚めて窓から外を見ると、庭の木々は太陽の光に照らされ「おはよう」と言っているようだった。どこまでも広い空は雲一つなく真っ青で、僕は何とも言えない懐かしい光に包まれた。「よく帰ってきたね。」僕は、あぁ、前世はここだったとしっくりきた。

 2回目はWSSDの本番。WSSDの政府間会合は、ヨハネスブルグ北方のサントンで開催されたが、NGOグローバルフォーラムはヨハネスブルグ南方の、市街と黒人居住区ソエトの間にあるNASREC(ナズレック)という展示場で開催された。僕は、下見の結果、黒人居住区に宿を取れば安くて近くて安全と考え、ソエトのB&Bを予約した。WSSDに参加するNGOの人たちにもそれを提案したが、ほとんどのNGOは空港近くのホテルに宿泊することを選んだ。彼らはNASRECに一日か二日顔を出して記念撮影すると、せっかくアフリカに来たのだし、エコツーリズムにもなるからと、動物をみるためのサファリツアーにでかけていた。しかし、「アフリカに行ったら、サファリをしてライオンを見なければならない」という強迫観念のような信念はどうやって刷り込まれるのだろう。環境NGOであっても、物見遊山を優先する現実には正直驚いた。

 僕は、WSSDが終わった後、宿の近くの警察署で開かれたサミット期間中の無事を祝うパーティーに招かれたり、黒人居住区をしばらくぶらぶらしたりして、2~3日して日本に帰った。(実は、このサミットにはNOAAのフェリックス・コガン博士も来ていて、突然後ろから声をかけられ驚いた。富山以来、半年ぶりの再会だった。)
 日本に帰国した僕の手には、ヨハネスブルグでの本番に向かう飛行機の中で「人類とは何者か、文明とは何か」と書きつけた手帳があった。このとき、南アフリカが人類の生まれた土地であることに、僕はまだ気づいていなかった。


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