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日商岩井・宇宙航空機部に就職

 大学4年生の秋、僕は南ア研究者になろうと思って、アジア経済研究所の採用試験を受けた。最終選考を経て、身体検査まで受けたのだが、不採用となった。その後受けた大学院の入試も落ちた。
 留年した僕は、テレビの世界に憧れていたので、テレビ朝日でバイトをしながら就職活動をしていた。NHKの就職採用試験では、重役面接までいったが採用されなかった。NHKの重役に、「入社したら何をしたいか」と聞かれ「ラジオドラマ」と答えた。そのマイナーぶりに驚かれたが、それで落とされたわけではないようだった。日商岩井人事部の先輩によれば、興信所の調査で僕は過激派学生になっていたという。南ア旅行の報告を市民運動団体で行ったことが影響していたのだろうか。結局、その先輩のおかげで日商岩井に採用され、宇宙航空機本部に配属された。
 僕は、小学校の卒業文集に「国連で働く」と書いたことはもうすっかり忘れていた。

 日商岩井では、はじめは民間ビジネスで、横浜ゴムが製造するボーイング旅客機向けトイレのスペアパーツの輸出にかかわった。当時(も今も)、日本からの航空機部品の輸出は、厳しく制限されていて、トイレの灰皿やドアの付属品を輸出するために、霞が関や大手町の通商産業省・産業局に出向いて輸出許可証を申請し、受領しなければならなかった。

   半年すると、航空自衛隊のF4-EJ戦闘機向けのレーダーの能力向上のためのアメリカからのライセンス国産と、RF-4E偵察機向けのアメリカ製電波妨害装置AN/ALQ-131の輸入担当となり、契約業務のために六本木の調達実施本部や入間の航空自衛隊第三補給処、鎌倉の三菱電機、名古屋の三菱重工に通った。

 当時の日商岩井には毎年10名を一年間海外研修させる制度があった。当時、アメリカでMBA(経営学修士号)を取得するのが流行っていたが、僕はそれにまったく興味がわかなかった。社内でスペイン語会話を勉強していた僕はスペイン語研修で申し込んだ。ところが、大学3年の南アフリカ旅行の帰途立ち寄ったタンザニアの日本大使館の方から「アフリカが好きならフランス語をおやりなさい」と言われたことを思いだし、途中でフランス語に変えた。選考面接のとき、「君の論文は『フランス語  WHY?』と書いてあるが、WHYは英語だ。フランス語ではなんというのかね。」と質問され、「フランス語は知りませんが、スペイン語はポルケです」と答え、「フランス語も同じ、ポルクアだ」で合格になった。寛大な会社だった。
  
 就職して4年目の春、僕は語学研修のためにフランスへ渡った。

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