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はだかの王様 クロード・シャノン1  最初の妻と恋人が描いた人物像

クロード・シャノンとは何者なのか

 熱力学のエントロピー概念と情報理論のエントロピー概念は、どうして反対の意味なのかということについて、考えてみようと思ったのだが、まず「情報理論の父」と呼ばれているクロード・シャノン(1916年4月30日-2001年2月24日)という人物の人物像をみることにしたい。

 クロード・シャノンは、ウォーレン・ウィーヴァーとの共著である「通信の数学的理論」(筑摩学芸文庫、植松友彦訳、2009年)という著作で知られてる数学者である。この本は有名な割に、ほとんど読まれていない。最近は大学の先生も本を読まないと聞くが、実は驚いたことがあった。

 2011年9月30日、東京工業大学で開かれた電子情報通信学会の情報理論研究会には教授・学生・企業関係者が30名ほど参加していた。そこで、私はシャノンについて発表したのだが、「この本を読んだことある人は手を挙げてください」といったところ、誰一人として手を挙げなかったのだ。シャノン理論の研究をする情報理論研究会なのであるが、教授や助教授を含め、「通信の数学的理論」は誰にも読まれていなかったのだ。

ところが面白いことに、情報理論関係者は全員シャノンの言葉に支配されている。たとえば「情報理論のエントロピー概念は、熱力学的とは関係ない」と信じている。あるいはシャノンの「情報の意味は論じなくてよい」という言葉を真に受けている。

 シャノンを読んでいないのに、シャノンが言ったとされる言葉を信じるというのは、いかがなものだろうか。シャノンの言葉が正しいかどうかを自分で確かめることなく、盲信し、鵜呑みにしてしまっている。もしシャノンが間違っていたらどうするのだろう。

 シャノンが語ったことが、正しいか誤っているかは、自分で丁寧に読んでみないことにはわからない。「シャノンを乗り越えるためには、シャノンを読むしかない」と私は思う。

 私は2008年にヒトの言語は、哺乳類のアナログ記号コミュニケーションがデジタル進化したのではないかとひらめいて、デジタルとは何かを知るために「通信の数学的理論」を英語で読んだ。そこからかれこれ14年間、シャノンの著作やシャノンに関連する文書をひたすら読んできた。

 2015年にアメリカにいったときには、シャノンがプリンストンで働いていた高等研究所(IAS)も訪れたし、最初の妻ノーマと住んでいたプリンストンのアパートも玄関だけだけど見てきた。米国議会図書館の手稿室では、シャノンの手紙やノートなどの手稿も閲覧した。

 シャノンの博士論文のチューターであった、コールドスプリングハーバー研究所の心理学者、バーバラ・バークスは、1943年5月にニューヨークのワシントン橋から転落して亡くなった。気になった私は、彼女が転落死した現場である橋の上も歩いてみた。

彼女は弱冠40歳であり、天才児の研究をしていて、将来を嘱望されていた。私が訪れた日(2015年3月)はとてもいい天気だったのに、橋が見えてくるとにわかに雨がぱらつき、橋の上ではずっと降り続いていた。バーバラの涙だったかもしれない。

 

クロード・シャノンには自伝がない。彼を知るには,IEEEオーラルヒストリー(1982年)か科学雑誌OMNIが行ったインタヴュー(1987年、Claude Shannon Collected Papers IEEE 1993年に所収)くらいしか資料は存在していなかった。このインタヴューを読んでみると、いろいろと面白いことがわかる。つっこみどころ満載というべきか。

初のシャノンの伝記は、2017年に米国で原著が出版され,2019年に邦訳が出版された。(ソニ,グッドマン クロード・シャノン 情報時代を発明した男 筑摩書房2019) ソニとグッドマンが書いたシャノン伝は、影が薄い、薄すぎるといってよい。

 二人の著者は,情報や通信とは無縁の世界に属する。ハフィントンポスト元編集長ソニと元スピーチライターのグッドマンは、情報理論と無縁の二人であり,二人の分担が明記されていない.そもそもいったい二人はどのような協力関係にもとづいてシャノンの伝記を書いたのか。なぜ共著なのか。なぜシャノンの伝記を書いたのか。

 本を読んでも、まったくひと言の説明もない。そして、この本を読んでも、これをもとにしてつくられた2018年の映画「Bit Player」(トップ画像)をみても、シャノンという人物について何かわかったという気分はうまれてこない。むしろ謎が深まるばかり。


 2001年にシャノンが没した後,1940年から一年半ほど結婚生活を送り、1941年6月に夜逃げ同然でシャノンのもとを去っていった最初の妻ノーマが自伝を書いた。(Norma Barzman, The Red and the Blacklist, Nation Books, New York 2003)  これはシャノン研究者にとっては、青天の霹靂だった。誰も最初の結婚があったことを知らなかったからだ。

ノーマの自伝にあったノーマとクロードの若いときの写真

 ノーマの自伝には、1963年と1966年にシャノンと再会してベッドをともにする場面が描かれている。このベッド上の会話もなかなかに面白い。

 だがさらに驚くことに、ノーマが夜逃げした1941年、ニューヨークでシャノンと知り合い、同棲状態にあったマリアが,2004年(ノーマの自伝の翌年)、自分とシャノンのために心理セラピー日記を出版したことだ。(Maria Moulton-Barrett, Graphotherapy Write to Find Your True Self, Trafford Publishing 2004)

ニューヨーク・マンハッタンのアパートの前で クロードとマリア

  この本は、大好きなクロードのプロポーズをなぜ自分が断ったのかを分析した本である。しかしその真の目的は、罪深いクロードのために、悪魔祓いをするためと記されている。マリアが本に描いた内容は、シャノン研究者にとって重荷過ぎるのか、まだ十分な研究は行われていない。

 マリアはクロードが亡くなった後、ラジオ放送で、「ヘルマン・ワイルという偉大な数学者が、第二次世界大戦中にシャノンが行った機密作業の指揮・監督を行った」と耳にした。その時、当時の記憶を思い出したのだった。

 いったいクロードは何をしでかしたのか。あのときヘルマン・ワイルとクロードは、上司と部下の間柄ではなかった。

 1944年9月に、クロードとマリアは二人でプロビンスタウンにバス旅行する。そこで偶然、マリアの友人で亡命ソルボンヌ大学の女学生ワイル嬢に出会う。

 ワイル嬢は若くて快活な女性で、二人と一緒に行動をした。

プロビンスタウンでのクロードとマリア

そしてワイル嬢は、その街にきていた自分のお父さんに二人を紹介した。


 このワイル嬢のお父さんが、数学者のヘルマン・ワイルだったのだ。彼は、娘がクロードとマリアと一緒にいる姿をみると、何かおぞましいものでも見るような眼をして、即座に踵を返して離れていった。

 マリアの手記 「私は落ち着かなかった。いったい私は何を見たのだろう。私がクロードと一緒に立ち去るところを、ワイル嬢や誰かに見られてよいものかと思った。

クロードは、ワイル嬢の父上のことは知らないといった。(略)この事件は悲しみと大混乱をもたらした。(略)

私はその日は「なるべく離れていましょう」と言い張った。その晩、私たちは喧嘩した。私は彼が、いや男の人が泣くところをはじめて見た。彼の鳴き声は心に染みた。心が捩れるようだった。

この事件は、ほかにもいろいろとあるなかのひとつにすぎないけれど、罪の意識で私を傷つけた。」

 シャノンという人物については知れば知るほど、謎が深まり、彼の考え方や思想も、奥方や昔の恋人を含む女性たちとの人間関係も、わけがわからなくなる。

謎は本当に多い。それはまた明日、書いてみようと思う。

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