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神風串呂入門-神皇正統家極秘伝(第4分冊) 発行 串呂哲学研究会

第4章 後醍醐天皇は誰に譲位したか!(続き)

(4)白鹿はくろく二年行貞奉ゆきさだほう執達状(得江文書)

それは得江とくえ文書(白鹿はくろく二年行貞奉執達状ゆきさだほうしったつじょう)と呼ばれる古文書です。

この白鹿二年行貞奉執達状(得江文書)は、前田旧候爵家こうしゃくけが所蔵していた古文書で、白鹿2年(1346年)卯月20日付けで得江九郎(頼員)宛てに出された「軍忠書」です。中院右中将の名前で通達されています。

現在この文書は、尊経閣文庫に保存されているほか、東京大学史料編纂所に写真が有ります。

ここは歴史上とても重要かつ微妙なスポットですので、現在第一線で活躍中の歴史学者、森茂暁もりしげあき(福岡大学名誉教授)の『太平記の群像』から「幻の北陸王朝」の関連記事をご紹介して、考察を深めていきたいと思います。(/印は改行を表わします。)

55頁


(5)幻の北陸朝廷の足跡

「(前略)こうして、北陸朝廷は崩壊したかのように、史料の上から姿を消す。ところが数年後、この地方に「白鹿」という年号の文書が忽然こつぜんとしかも孤立的にあらわれる。(中略)/それは、白鹿二年卯月二十日付けの行貞奉書ゆきさだほうしょで、内容は、得江九郎(頼員よりかず)の軍忠を賞し、一統のあかつきには真っ先に恩賞を与えようという、中院なかのいん右中将家うちゅうじょうけの仰せを伝達するものである。文書のそでには花押かおうがすえられており、おそらく中院右中将某のそれと考えられる。得江氏は能登のと国の国人。所蔵元は前田育徳会尊経閣そんけいかく文庫。問題は、「白鹿」という耳慣れない年号が、正史の年号とどう対応するかである。/白鹿年号については、竜安寺所蔵『太平記』(いわゆる西源院本)巻二十五の奥書に、「京方貞和元年乙酉、南方白鹿元年と号す」という記事があり、これによれば、白鹿二年は北朝の貞和二年(一三四六)、南朝の興国七年(正平元)に相当する。/むろん白鹿年号と恒良親王とを関連づける確たる証拠はない。しかし、右の文書のなかに一統のあかつきには云々とあることから考えると、これを出した者の属する勢力はどちらかといえば南朝系統らしい。なのに興国という南朝年号を使用していない点がおもしろいのである(正平改元は興国七年十二月八日)。(後略)」

(森茂暁『太平記の群像』208頁/角川ソフィア文庫、太字は編集者、「 / 」は改行を表わす。)。

この記事から分かる重要ポイントを抽出しますと下記のようになります。

ア、白鹿2年(1346年)卯月20日付けの南朝方から得江氏に出された文書が存在する。

イ、南朝には興国年号(1340~1347年)があるのに、それとは別の白鹿年号が使用されていた。

ウ、白鹿年号が南朝の元号として使用されていたことは竜安寺所蔵『太平記』巻二十五の奥書で確認できる。

エ、得江氏は能登の国人であることから白鹿は北陸朝廷が使用していた年号であると思われる。

オ、南朝には、吉野朝の後村上天皇(在位1339- 1368年)とは別に白鹿年号(1345-1346年)を使用して天下に号令を掛けていた北陸朝廷の天皇が存在した。

56頁

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