時間を過ごすではなく、時間を生きる

先日

「脳と身体を持って産まれてきたのだから、脳と身体を使って行動することは人生で最も行うべき正しいことであり、この命=時間を行動することに燃やすべき」

という話をした。

短くまとめると「時間は命であり、命は行動である」ということ。

ADHDは人生で最も正しい行いをしている

僕は「注意欠如・多動性障害(ADHD)」である。
普通の人よりも、多く思考し、多く動いていると自覚している。
まさに、脳と身体をフルに活用し、誰よりも産まれたこの人生を正しく活用しているではないか。
自分を認めてあげようというつもりではなく、僕はADHDのことを障害で苦しんでいると思い込んでいるけれども、実はそうではなくて、誰よりもこの世を正しく生き、楽しんでいると言えるのではないかと思っている。

以前の日記で

『障害というのは、障害を持つその個人が問題なのではなくて、他者にとっての障害(問題)である」

と書いた。

ADHDを考える時、まさにそうだなと思う。
僕や同じADHDを持つ人々は、普通の人よりも思考し、普通の人よりも多く動く。
だから不注意も多く、人に迷惑をかけてしまう。
それを世間では「障害」と呼んでいる。

当たり前の話だが、世界がもし自分一人しか存在しないなら、いくら思考して、多動であっても障害も何も問題ないのだ。
そんな世界は無いので無意味な話だが、多動性は、人生において、脳と身体をフルに使う特性なのだから、持って生まれたこの脳と身体を最大限フルに活用する素晴らしい人生の生き方なのではないだろうか。

他者にとっては迷惑な話だが、僕らの生き方は、社会的には誤りとしても、人生的には誰よりも正しい存在なのだと昨日の日記を書いて、僕は改めて思った。
だから最近は、障害のことを誇らしくも思う。

毎日多過ぎるこのnoteに書く文章ですら、よくやるわと思う。
「思う」ことを自分ではコントロール出来ないし、もうコントロールする必要もないのかもと思っているので、他人に迷惑かけるわけじゃないのでもう好きにしたら良いんじゃないかと思う。

なので引き続き思いを書くし、多動ですら素晴らしいと思う。

客観的時間(クロノス)と主観的時間(カイロス)

昨日の日記に続いて「命は時間である」ということは正しいかどうか考えた。

もし今この世界の時が止まったら、命は存在していると言えるだろうか?
もし今この命が終えてしまって、死んだら時間は存在しているか?

そう考えると「命=時間」は完全な一致ではないと考える。


なぜならば、世界の時間が止まったとしても、命はそこに「在る」ことはある。
そして、もし自分が死んだとしても、世界は回り時間は「存在」する。

命も時間も「客観的には存在する」が、もし命を落としたり、時間が止まったりすれば「主観的には存在してないも同義」ということなのだと思う。

だから「時間は命そのものである」ということは、半分正しいが半分正しくないというなのだと思う。

時間には「主観的時間(カイロス)」と「客観的時間(クロノス)」という二つの時間に分けられるらしい。
最初上手く理解できなかったが何となく分かってきた。

クロノスというのは、客観的時間のことらしいのだが、川の流れのように止めようがないこの宇宙に流れる時間のこと。
どういうことかというと、先程「自分が死んでも、世界は回る」という話をしたが、自分自身の存在とは無関係に流れる時間を「客観的時間(クロノス)」と言うようだ。

カイロスというのは、主観的時間のことらしいのだが、どういうことかというと、自分の意思の世界の時間ということらしい。
例えばよくある話で「えっ!?もうこんな時間!?」ってことあると思う。
自分の中ではまだ1時間くらいの感覚なのに、時計(客観的時間)は、3時間を刻んでいるなんてことはADHDの人でなくてもよくあると思う。
これが「主観的時間(カイロス)」。

(どなたか時間に詳しい方おりましたら、もし間違ってたら教えて欲しい)

以上の事から、なんとなく時間には「自分と関係なく勝手に流れる時間」と「自分の中で流れている時間」が在ることは理解できた。

意識した時間こそ価値がある

僕のこの日記は、当たり前のことを自分なりに解きほぐしているだけなので、当たり前の話が多い。
ただこうして分解してみると分かったのは、自分含め、多くの人が「客観的時間」に生きてしまっている人がいると思うということ。

8時30分に山手線行きの電車が~、午前10時に始業して~14時からは定例会議、18時には退社~…

というような、社会的な川の流れのような時間に流された時間の中で生きていないだろうか。
これは社会生活を送る必要があるヒトには欠かせないものであるから、悪いと言うわけではない。
このような客観的時間というのは、なくてはならない時間であるものの、勝手に流れる時間なので「自分とは関係ない時間」と言えるということ。
電車は自分が乗ろうが乗るまいが、勝手に出発する。
客観的時間のなかには、個人の意思や目的など、自分という存在は含まれておらず、勝手に流れる非常に無機質な時間なんだと分かる。

意識ある主観的時間を過ごすことが大切

僕は、時間のことを考えた時「主観的な時間」を意識して生きていきたいと思った。
主観的な時間とは言わば「意思と目的のある時間」なのではないだろうか。
だらだら何も意識しないでテレビを見ているといつの間にかとんでもない時間になってることがある。

これは時間に対して「何も意識をしていない」から起こることである。
「ダラダラ何も意識せずテレビを見る時間」というものは「電車は自分のために待っていてはくれない」というのと似ている。
どちらも客観的な時間(行動)がただ過ぎ去っているだけであり、そこに自分という存在は無いに等しいのだ。

つまり何が言いたいのかと言うと

「意識のない時間」というものは「自分にとって関係のない価値のない時間と同じ」という事であり「意識する時間」というものが最も人生において価値のある時間だということ

時間管理や、時間を大切にするという行動の中で、大切な考えは
意識を持った主観的時間(カイロス)を持つという考えだ。

当たり前のことを小難しく書いているだけなのだが、要は

時間には目的意識がとても大事だ

というただそれだけのこと。

ただそれだけのこと何だけど、生きている中で、勝手に時間が流れることって本当に多いから、それこそ意識すべき事だと思う。

スケジュールを書いたりすると

17時からご飯を食べ、18時にはお風呂、19時にSNSをチェック

というように「行う物事」にだけフォーカスしてスケジューリングしがちだ。

だけど、意識がない行動は、それはただの物事であり、ただの客観的時間でしかなくて、そういうスケジューリング方法だと、時間が勝手に流れていく価値のないものになる。
それよりも「得たい目的」にフォーカスして行動をスケジューリングした方が価値があると思う。

意思があるから生きている

行動にも時間にも全て「意識と目的が必要である」と思うのだ。

「ご飯を食べる」というと、ただの客観的時間と行動になってしまう。
それよりも「ご飯を家族と美味しく楽しんで食べる」という意識を持つだけで、主観的時間に変わり、自分にとって最も関係のある価値のある時間に変化する。

「お風呂に入る」というただの行動ではなく「のんびり何も考えずに心と身体を癒すお風呂に入る」という意識を持つ

「SNSを見る」という行動ではなく「何を楽しみたいのかやどんな情報を得たいのか」という意識を持つ

それだけで、時間の持つ価値を何倍にも出来る

命は時間であり、命は行動であると冒頭で述べたが、ただ行動するだけの
『意識のない客観的時間(クロノス)』よりも『意識と目的ある主観的時間(カイロス) 』を人生でより多く持つべきである。

行動しない事は、世界の時が止まったのと同じことであり
意識のない時間は、この命が止まるのと同じことである

そのくらいに思って生きていきたい。

前回は行動することの大切さを考えたが今回は、時間を「何のための時間なのか」考えることの大切さを考えた。

画像1

幸せに近づくためには、脳で「思ってるだけ」ではダメだし
客観的な時間だけに囚われて生きてもダメなんだと分かった。

ADHDの人は特に、衝動に駆られて意識もせずに行動をしがちだ。
ただ行動するのでは無く「何のためにやるのか」を意識して時間を生きようと思う。

ただ「時間を過ごす」のではなく「時間を生きる」ことが人生では大切なんだ。

大変勉強になった。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?