書評・アーザル・ナフィーシー『テヘランでロリータを読む』市川恵里訳、河出文庫

 はじめはタイトルに惹かれた。テヘランとロリータの組み合わせが不思議で面白い感じがしたのだ。しかし、実際に読んでみると、このタイトルは奇をてらったものではなく、本書の内容を的確に表現した、動かしようのないものだった。
 イラン出身の女性英文学者である著者は、圧政下に自宅で、密かに西洋文学の読書会を開く。学生たちとの日々を綴ったノンフィクションだ。1995〜1997年の当時、イランでは西洋文学が禁じられていた。だから、秘密の読書会になってしまうのだが、取り上げられる本は、ナボコフ『ロリータ』やオースティン『高慢と偏見』などだった。
 素朴な疑問として、どうして世界文学全集に収められそうなこれらの本が発禁になるのかということがあった。イランにおける1979年のイスラム革命以後、原理主義的なムスリム体制により、西洋的なものは徹底的に糾弾されるようになってしまったという実態が切々と述べられる。
 著者らを抑圧するのは政治体制だけではない。イラン・イラク戦争によるテヘランへの空爆。さらに、法律によって支えられた逃げようのない女性差別。
 投獄や処刑と隣り合わせにある、過酷な状況下で、生き延びるために文学書を読む。比喩ではなく、文字通り生を懸けた読みによって、生きていく。そのとき、テヘランでの『ロリータ』は、男の夢を押し付けられて犠牲者となった自分達女性を描く作品であり、全体主義に抗するナボコフの声であると読まれたのである。著者は、「私たちの『ロリータ』にした」と書いている。
 文学の力というものが、くっきりとして輪郭を持って描き出されている感動的な作品である。読むことは考えることであり、考えることは社会を見つめることである。そして、ぼくたちは、そのような営みを続けて生き延びていかなければならない。

『銀河通信』への寄稿

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