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詩人の眼

いつの時代のいかなる国民も、おそらくアメリカ人ほどに豊かな詩心をそなえた者はいない。合州国そのものが、本質的には最大の詩編なのだ。(酒本雅之訳/以下同じ)

ウォルト・ホイットマンは詩集『草の葉』初版(1855年刊)の序文で、こう記した。
彼は1819年5月31日、ニューヨーク州ロングアイランドの小村に生まれた。
きょうで生誕200年になる。

生涯、加筆重版を繰り返した『草の葉』で、詩人は何を詠おうとしたのか。

分かってくれ、偉大な宗教の胚珠を大地に蒔く、ただそのことだけを願って、ぼくは今からかずかずの歌を歌っていく、その一つ一つに実在の姿を刻みながら。
友よ、
君が二つの偉大なものをぼくと分かち合い、その二つを含んできららかに立ち現れる三つめのものを、どうか分かち合ってくれますように、
偉大な「愛」と「デモクラシー」、そして偉大な「宗教」を、
(「ポーマノクからの旅立ち」)

『草の葉』を高く評価し、詩人ホイットマンを世に送り出したのはエマソンだった。
だが、この詩集は1855年の発刊直後から激しい批判にさらされる。
伝統的な形式を踏襲しない自由詩だったからばかりではない。
「ぼく自身の歌」などに綴られた性的な描写、しかも、あからさまな同性愛的描写が、反道徳的なものだとして攻撃されたのだった。

性交だって死と同様ぼくにはいっこうに下品ではない。
ぼくは肉体も肉欲もいいものだと思う。
見ること、聞くこと、感じること、すべてが奇跡、そしてぼくの部分も端々もそれぞれが奇跡。
内も外もぼくは神聖、ぼくが触れればぼくに触れればどんなものでもぼくが神聖にしてあげる、
この腋のくぼみにこもる匂いは祈りよりもかぐわしく、
この頭は教会、聖書、ありとあらゆる信条よりも尊い。
もしもぼくがとくに何かを崇めるとしたらそれはぼく自身のからだの、あるいはその任意の部分の広がりだ、
ぼくのからだの半透明な姿態だ、
陰深い岩棚もどきの安らぎの聖域だ、
屹立する男の犂の刃だ、
ぼくを耕すのに役立つものよ、何であれぼくが崇めるのは君だ、
君ぼくの豊潤な血液よ、ぼくのいのちを搾りつくす色淡い乳白色の君の流れよ、
仲間たちの胸を強く抱きしめる胸よ、ぼくが崇めるのは君だ、
ぼくの脳髄よぼくが崇めるのは君の不可思議な渦巻き模様だ、
しっとり濡れる菖蒲の根、池で縮こまっている小心者の鴫、大切に守られている一対の卵の巣だ、
干し草みたいに組んずほぐれつ乱れた頭髪、それから髭よ、筋肉よ、君たちもだ、
したたり落ちるカエデの樹液よ、男らしいコムギの繊維よ、
実に気前のいい太陽よ、
ぼくの顔に光と陰を与える霧よ、君たちもだ、
君汗みずくの小川よ露のしずくよ、
ぼくに性器をこすりつけてそっとくすぐる風よ、君たちもだ、
広広とつづく筋肉の平原、カシの木の枝々、曲がりくねったぼくの小道をいとしげにぶらつく者よ、
ぼくが握りしめた手、ぼくが接吻した顔、ぼくが触れたことのある人よ、ぼくがとくに崇めるのは君たちだ。
(「ぼく自身の歌」)

前後を読めばわかるように、詩の中で使われている「菖蒲の根」は男性器の隠喩である。
1860年に出された第3版では、新たにその名も「カラマス」という詩が追加されている。カラマス(calamus)とは菖蒲のこと。
40代に入った詩人は、もはや何かを振り切ったように詩を綴る。

きょうこそは男同士の愛着の歌、ただそれだけを歌いぬこうと思いさだめて、
生きるに甲斐あるその生の路傍に歌草をあまた撒きちらしつつ、
壮健な愛の模範を未来の世代に遺贈しつつ、
わが四一歳のこの爽快な九月の午後に、
さらに今ぼくは若い盛りの、あるいはかつて若かったすべての人のために、
ぼくの昼と夜との秘密を語り、
僚友の必要を賛えようとも思うのだ。
(「カラマス」)

エマソンやホイットマンといったアメリカ・ルネサンスの文学は、アメリカが真の意味で旧大陸の思考から決別し独立する宣言となった。
ホイットマンは非難と侮蔑を浴び続けながらも、『草の葉』で生涯をかけて、自身と〝僚友〟たちの愛と性のありようを高らかに肯定し続けた。
詩人にとって、それは単なる私生活の問題などではなく、「民主主義」の本質的な問題であり、真の意味で「宗教」の根幹の問題だったからだ。

晩年の代表作「インドへ渡ろう」で、彼はこう呼びかけた。

新しい信仰をわたしは歌う、
頭上には太陽と月と無数の星との言語に絶する高貴な行列、
地上には多種さまざまな草と水、動物、山、そして樹木、
それぞれに測り知れない目的をそなえ、未来を予告する何かの意図を秘めている、
どうやら初めてそういうあなたを、わたしも分かり始めてきたらしい。
インドよりさらにかなたへ渡って行こう、
あなたの翼は本当にこれほど遥かな飛行に堪える羽毛をそなえているか、
おお魂よ、本当にそれほどの航海に出かけるのか、
それほどの海の上で楽しむつもりか、
サンスクリットの聖典やベーダよりもさらに深く探るのか、
それなら思いどおりに、心ゆくまで。



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