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認知の歪み

二重橋に近い皇居外苑の南東の隅。帝国劇場から濠を挟んだ木々の中に、騎馬武者の青銅像が据えられている。
台座を含めると高さ8メートル。14世紀の武将・楠木正成の像である。
住友家が別子銅山の開山200年を記念して、高村光雲ら東京美術学校の面々に依頼して制作し、1900年7月に宮内庁に献納された。

鎌倉幕府の滅亡に決定的な役割を果たしながら、楠木正成の人物像については晩年の数年間の記録が残る程度で、生年や生地すら特定できないほど不明な点が多い。
それでも近年の研究で少しずつ、その姿が見えつつあるという。

楠木氏は河内の一土豪ではあったが、大阪湾を海路で結んで摂津や播磨とつながり、あるいは紀伊や伊賀への陸路の要衝を抑えて、水陸の物流ルートを掌握していた。
さらに、畿内の有力寺社の周縁に生きる猿楽芸能集団と密接な関係を持っていた。

正成が、河内の一土豪でありながら、内乱の過程でおどろくほど的確な行動を展開することができたのは、広範な地域の土豪層と婚姻関係や分業・流通のルートを媒介として結びつき、かれらと正確な情報を交換し、これを蓄積することができたからである。情報の蒐集と正確な分析こそが内乱期をのりきる武士団の長としての絶対的な条件であった。(「楠木正成とその時代」佐藤和彦『楠木正成のすべて』所収)

当時は、人の往来する物流の道がそのまま情報の道となった。
しかも、猿楽芸能集団は自在に越境して、社会のあらゆるところに出没できる。
楠木氏は、紀伊半島と大阪湾の物流と情報のルートを抑えることで、富と影響力を増していった。
それは必然的に、北条得宗家の統治政策や既得権益と衝突するものになった。

楠木正成は、その毀誉褒貶においても落差の著しい人物である。
江戸時代、すでに「忠臣」としての人物像が形成され、幕末には志士たちの尊崇を集めた。
皇居外苑の銅像が完成したのは、日清戦争と日露戦争の狭間の時期。
日中戦争から太平洋戦争にいたる戦時下になると、正成と息子・正行は国民学校の教科書に頻出し、皇民教育における〝理想的な人物像〟として賞揚された。

楠木正成は大日本帝国の支配層によって「最も正しき日本人の典型」として華々しく喧伝され、天皇の軍隊を維持し、国民を侵略戦争に駆り立てていく際のイデオロギー支配の要としての役割を担っていた。(「楠木正成と日本人」――教科書にみる正成像の変遷――/海津一朗/前掲書)

神戸生まれの私にとって、正成の祀られた湊川神社は身近な存在だった。
正成が討ち死にした土地に明治政府が建てた湊川神社は、神戸の人々には「楠公さん」と呼ばれていた。
兵庫県の県樹はクスノキである。

鎌倉幕府の終焉に重要な役割を果たしながら、戦後なぜか日本史の登場人物としてさほど注目されなくなったのは、戦時下の賞揚への抵抗や反発と無関係ではないのだろう。

しかし、数世紀にわたって政治的・イデオロギー的に利用されてきた「楠木正成」像から離れ、虚心坦懐に彼の生涯に想像力のフォーカスを当てていくと、きわめて現代的な人物像が浮かび上がってくるように思われる。

独自の物流網と情報網で富と軍事力を築き、幕府軍の猛攻を撃退し、わずか数年で土豪から天皇の側近にまでのぼりつめた男。
地の利や時の運も大きかったが、正成を歴史の表舞台に押し出したのは、一にも二にも、その「情報の蒐集と正確な分析」の能力であったと思う。

妥当性の疑わしい事柄に対し積極的な関心を払うとき、私たちは自分たちの政治秩序の破壊に荷担しているのです。(『暴政』ティモシー・スナイダー)

ある出来事、ある人物、ある組織、ある政体。それらに関して飛び交う膨大な情報を精査し、統合して自分なりの評価を下すことは、今日ますます難しくなっている。
2016年の米国大統領選挙では、たとえば東欧のマケドニアで大量に〝生産〟されたフェイクニュースが米国世論を大きく動かしたと言われている。
もちろん、今では広く知られたこの話ですら、眉に唾をぬっておかなくてはいけない。
ものごとを単純なストーリーに落とし込むのもまた、陰謀論の定石だからである。

情報の評価が容易でないのは、まずなにより、私たちの側に染み付いた習性が、その認知を歪ませるからだ。
私たちはしばしば理性的に情報を取捨選択している錯覚に陥りながら、ほとんど無意識的に自分が見たいと思っているストーリーに沿って、それを補強し肯定してくれる材料を探してしまう。

そして、ともすればシロかクロかの二分法で、単純に納得することを急ぐ。
世界の巨大さの中で、あまりにも卑小で不確かに思える自分。広がる格差と、あまりにも理不尽な境遇に追いやられているように思える自分。
社会を「善」と「悪」の対立の構図に単純化し、「悪」と見なしたものを罵倒する時、人は自分に正統性が付与され、世界に参加した安心と高揚を覚える。
判断の保留をせず、是か非かを即時に言明することこそ、自分が暗愚でない証明のように思ってしまう。

善悪二元論的な世界理解は、日頃抱いている不満や怒りを、たとえ闘争とは事実上無関係であっても、そこに集約させてぶつけることができるからである。それによって人びとは、自分にも意義ある主体的な世界参加の道が開かれていることを実感する。
つまり、ポピュリズムは一般市民に「正統性」の意識を抱かせ、それを堪能する機会を与えているのである。(『異端の時代――正統のかたちを求めて』森本あんり)

私たちには、いわば身体に染み付いたそのような習性がある。それをまずしっかり自覚することが、認知の歪みを遠ざける第一条件である。
そして、自分の見たい世界を補強してくれる情報源だけでなく、異なる立ち位置からの、違和感を覚える情報源をあえて押さえておくこと。
複数の多様な光源に照らして、情報を精査する。これが第二の条件であろう。

第三には、これがもっとも重要なことかもしれないが、有害な情報源に迂闊に感染しないことである。
権力欲、人を操る全能感、利害のためのポジション獲り、あるいはルサンチマン、イデオロギー。
ツイッターで数万、数十万のフォロワーを持つアルファ―アカウントでも、私が心のなかで密かに「これはアウト」と見なしているアカウントがいくつかある。

それらアカウントに共通するのは、言葉巧みに善悪二元論で世界を語り、憎悪と不信、呪いと冷笑の安酒を人々の盃に注ぎ足すのに余念ないことだ。
常に、攻撃すべき〝敵〟の名を叫び、不利益を被っている人々の連帯者であるという立場を宣明して、勇ましく善の闘争を呼びかける。

政治は本来、妥協と調整の世界である。一方的な善の体現者もいなければ、一方的な悪の体現者もいない。
しかし、ひとたび全国民の「声なき声」を代弁する立場を襲うと、彼らの闘争には「悪に対する善の闘争」という宇宙論的な意義が付与され、にわかに宗教的な二元論の様相を帯びる。だからポピュリストの発言は、妥協を許さない「あれかこれか」の原理主義へと転化しやすいのである。(前掲『異端の時代』)

そして、素晴らしい学歴を持ち、愛すべき人柄で、尊敬すべき仕事をしている人であっても、情報リテラシーが著しく低いという人は珍しくない。
それは、学歴や人柄、業績の偉大さが、かならずしも感染症に対する知識と比例していないことに似ている。
その結果、高リスクなアルファアカウントを片っ端から拾い、眺めているつもりが侵入を許し、怒りや義憤に駆られて、歪んだ情報や感情を自分も積極的に拡散してしまう。

微生物が人や動物などの宿主に寄生し、そこで増殖することを「感染」といい、その結果、宿主に起こる病気を「感染症」という。(『感染症の世界史』石弘之)

さて、楠木正成は武勇と並外れた情報分析力を持っていたと同時に、和平への合意形成の可能性を放棄しない冷静なリアリストでもあった。
彼は、今や朝敵となって九州・鎮西に敗走した足利尊氏が、必ず早々に大軍を組織して反撃してくることを見越していた。
その時には朝廷側が軍事力で敗れると判断していたからこそ、正成は天皇の叡山への疎開と「君臣和睦」を建議した。
だが二度にわたる建議も、朝廷の体面を重視する有力公卿によって退けられ、勝算のあろうはずもない兵庫での合戦に向かうよう下命されるのである。

正成のような、きわめて近代的・合理的な感覚を持っていたように思われる人間が、数世紀の後にその人物像を都合よく加工され、滅私奉公の皇民イデオロギー教育に利用されたことは、悲劇的を越えて喜劇的ですらある。

皇居外苑の正成の騎馬像は、手綱を引いて馬の勢いを止め、馬上でやや顎を引いた姿勢につくられている。
不思議なことに馬も正成も皇居の方角を向いてはいない。
念のためグーグルマップの航空写真で確かめてみた。
情報分析の達人であった正成の顔は、どこを向いているのか。
甲冑を纏った青銅像の鋭い視線の彼方には、8車線もある内堀通のなだらかな坂が伸びている。
その先には、正成像が建った当時にはまだ存在していなかった国会議事堂があった。

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