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権力と新聞

東京高検検事長が、朝日新聞や産経新聞の人間と賭け麻雀をしていた事実を報道され、辞任した。
別の問題で日本中から最も注視されていた検事長氏が、緊急事態宣言の渦中に新聞記者の自宅をたびたび訪れて賭け麻雀に興じていたそうだ。
あまりにも荒唐無稽すぎて、映画の脚本でも不採用になるのではないか。

検事長のモラルと同時に、多くの批判や疑問が噴出したのが、ジャーナリズムと権力の「距離」である。
「ジャーナリズムは権力を監視し批判すべきもの」だと、誰もが判で押したように言う。
権力をチェックするためには、遠くから眺めているだけでは分からない。
権力は都合の悪いことを隠そうとする。だから接近し、時には懐に飛び込んで本音を引き出さねばならない。

現職の朝日新聞政治部記者で国会担当とプロフィールに書いている人物が、こんな投稿をした。

たちまち、欧米のクオリティペーパーがそんな取材方法をしていると思っているのか、というような手厳しい批判が殺到していた。
この朝日の記者は正直な人なんだろうと思う。
私が知る昭和の時代の記者の「王道」スタイルだ。
私はむしろ、そのスタイルが令和の時代にもなお、現職の朝日新聞の政治部国会担当記者のメンタルに脈々と受け継がれて、そこに微塵の迷いもない姿のほうに驚いた。

権力を監視しチェックすることは、たしかにジャーナリズムの使命だとは思う。
ただし、そういう美しい物語を独り歩きさせてしまうと、かえって危うい。

私は学生時代に学問としてジャーナリズムを学んでいない。
そのうえで、30代を過ぎてから、ジャーナリズム史の泰斗であった村上直之先生には、病に倒れられるまで十数年、友人としてさまざまなことを教えていただく幸運を得た。
あるいは平和学の父でありピース・ジャーナリズムを提唱したヨハン・ガルトゥング博士にも、共通の親友を介して知遇を得られた。

私はしがない物書き風情にすぎないが、「今日にあって万人祭司のように、あらゆる人がジャーナリストでなければならないのだ」という村上先生の言葉は、生涯大切にしようと思っている。

村上先生が名著『近代ジャーナリズムの誕生』のなかで鮮やかに論証しているもの。
それは、新聞という存在が近代警察とコインの裏表の関係で成立してきた歴史的事実である。

18世紀までの社会統治には「公開処刑」という刑罰システムが採用されていた。
熱狂する群衆の面前で死刑を執行する。その恐怖によって犯罪を「抑止」しようとしていた。
それが19世紀になると変容する。
M・フーコーが『監獄の誕生』で明らかにしたように、監獄の誕生によって「スペクタクルの社会」から「監視の社会」へ変容を遂げたのである。

しかし、村上先生はフーコーが見落としていたものを指摘した。
それは「パブリシティ」という思想である。
国家権力は、残忍な見世物によって犯罪を抑止する発想から、〝危険な階級〟が犯罪に至らないよう未然に予防する発想に、根本的な転換をした。

ここで大きな役割を果たすべく誕生したのが新聞の「犯罪報道」だった。
興味深いのは、監獄の運営が公開処刑に比べてはるかに巨額のコストを要すること。
そして、19世紀初頭に英国の国家警察スコットランドヤードが創設される時期の議論に、「パブリシティ」がもたらす犯人逮捕、犯罪抑止が、いかに国庫支出の削減に寄与するかがあげられていたことだ。

新聞が全国民に普及すれば、人々は容疑者の逃亡を見逃さないようになる。
人々はさまざまな犯罪や事故の存在を知り、それらを遠ざけようと心がけるようになる。
さらに、どのような人物が逮捕され、どのような裁きを受けるのかを知ることは、秘密化されていた監獄システムに、ある種の公開処刑的な効果をもたらす。

今日の日本を含む先進国の国家警察システムは、じつに新聞というマスメディアの誕生と普及によって完成した。
新聞もまた、禍々しい犯罪報道を売り物にして、その部数を広げていった。
近代日本における国家権力と犯罪報道(スキャンダル報道)の関係については、奥武則さんの『スキャンダルの明治――国民を創るためのレッスン』が秀逸なテキストである。

警察と新聞は、互いに不可欠な水魚の関係となって、国家の近代化にその役割を果たしてきた。
今でも、新聞社に入社した者は、まず地方支局勤務となり、基本的には地元の警察に張り付くサツ回りから仕事のイロハを教え込まれる。
国家権力が統治のために不可欠としてる「パブリシティ」の役割を、自ら引き受け、そこからジャーナリストの育成を開始しているのである。

警察官には守秘義務がある。
とはいえ、公式発表を受けて書くだけでは各社横並びになる。もちろん、完全に受け身になって警察からの情報をただ発信することも、新聞としての倫理観が問われる。
だから、記者たちは夜討ち朝駆け、あの手この手で当局に接近し、何らかの特ダネを引き出そうとする。

この「犯罪報道」のスタイルを、そのまま政治の世界に適用するとどうなるか。
必然的に記者は政治家や高級官僚と、何らかの特別な回路を持ちたくなる。
朝日の国会担当記者のツイートは、とても正直な告白なのである。

「ジャーナリズムの使命は権力のチェック」は、たしかに否定しようのない正しい言葉だ。
しかし事実として、新聞に代表されるマスメディアのジャーナリズムは、その生い立ちから現在まで、国家の規模でも地方行政の単位でも、権力のシステムの一部として機能してきたのである。
むしろ、社会正義を実現するという使命感に嬉々とさえして。

東京高検の検事長が、全国紙の人間と賭け麻雀に興じる。
この、一見すると理解しがたい奇怪な姿は、国家と新聞の歴史の象徴のようにも見えなくはない。

きょうはこれ以上書く気力がないので、このあたりでやめておく。
なお、「公正中立」「不偏不党」という、もう一つのスローガンのまやかしと、それ以上に、この錯覚がもたらす危険性については、これも絶版になっているのが残念だが、玉木明さんの『ゴシップと醜聞 三面記事の研究』が名著である。

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