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PBLで育ち、受験を経験し、独学に躊躇がない自分が子の学びにどう取り組むか(前編)

移住の話をしていると、

「しのさんは、進学校とかそういうものに行って、いわゆるエリートの道を進んで、それで今山奥にいて、子どもの教育とかどう考えているんですか」

という質問を受けることが多い。

まずなんでそんな質問を受けるのだろう、というところから問いを立て始め、自分なりに半年弱ほど色々調べてきて、様々な符号が合う箇所が見えてきたので、備忘録的に記載しておこうと思う。

受験は大体経験したが、覚えてるのは違う記憶

確かに、桜蔭というキレキレ女が集まる(または様々な意味でオタク度高め)中高一貫の女子校に行き、日本では東大に行ったので、「お受験」というものは全て通過した。

社会人になってからもディプロマだがオクスフォードのビジネススクールに行き、試験でガウンきながらエッセイも書いたし、修論も書いてるし、留学のための英語の試験も全て通過してきた。実は建築学科も受けていてデッサンも合格したりしているので、絵の試験もやったことがある。お受験塾サピックスがまだスタートアップだったころ、創業者4名が教えていた時にタイムリーに通っていたから、詰め込み教育も経験した。駿台や代ゼミや河合塾で、モラトリアムを満喫する浪人生活も経験している。そう「受験」と名のつく経験は大体やってる。運動がからきしダメなので、身体系以外の「試験」は色々経験した方だと思う。

でも、人生の中で思い出すほど楽しかった瞬間というのは、千葉大教育学部附属小の思い出なのだ。小学校4年生の時の工川先生は、いつも変な臭めなジャージを着ていて、口癖が「そんなに急ぐと早死にしますよ」で、にこにこしていて、国語の先生だった。チャイムというものを無視して授業をし、1日の半分くらいは「早く終わった子は校庭で遊んでいい」となっていたので、猛スピードで全てを終わらせて遊びに行った。校庭で遊んだ記憶と、先生独自が開発した授業と国語のノートが楽しかった記憶しかなくて、それが本当に楽しかった。

土曜には総合学習という自分で選んだプロジェクトを進めていく授業があり、そこで自分は養護学校に毎週通って養護学校の友達と遊ぶことを選んだ。他の子供たちで「とにかくでかい将棋を作る」ということをしてる子たちもいたし、「アニメを作る」と言って戦闘シーンの実写アニメをVHSで作っている子たちもいた。

小学校は、何やってもよく、何でもする場所にあふれていた。「カリキュラム」というものを無視することを許された先生たちが何人もいて、自由に研究していた、と言える。30年前のことだ。

そしてさらに遡ると、千葉大教育学部附属幼稚園に通っていた時のことも今もよく思い出す。園内にある山の木苺を食べて、芋掘りをして、うさぎやもぐらを追いかけていたことしか覚えてない。なんとなくうっすら文字を勉強したような気がしたかも、とか、アルプスの少女ハイジをテレビでみんなで見たような気がしたかも、とか、変なシーンしか覚えていない。だが、その中でも強烈に覚えているのが、皆で「家というか小屋」を一緒に作ったことだ。

はじめてのこぎりを手にし、釘を打った。これがのちに、自分の中で「空間」を作ることを選び続けるきっかけになった。大学受験でも建築学科を目指したし、今でも建築の本流にはいないけれど空間や場を作っている。その時、うかびあがる原風景は、いつも幼稚園のベランダにあった大好きな自分たちが作った「家」だ。

プロジェクトベースに対する厚い信頼は自分の経験から

いわゆる、この千葉大教育学部で研究開発されていたのは、プロジェクトベースラーニング(PBL)であり、その実験台になっていたのが、私たちだった、とあとで知る。特に上述した工川先生の国語の授業へ、日本中から参観する先生や研究者がきていたことをよく思い出す。皆が面白がって、私のノートを写真にとって帰っていったから、子どもごころに、工川先生って変わってるけどすごい先生なんだろうなあ、と思っていた。

自分はPBLで育ったのだということを最近だんだん理解してきたのだが、そういわれてみると私の中に、確かにPBLが強く埋め込まれている。というかPBL的な要素とプロセスでしか人生を生きてなかった気がする。

私は「探究学習」という新しく方々で使われるようになった単語についてはまだ疎い。よくわからないし、定義や範囲もわからないから、勉強中である。

だが、探究学習を研究したり子どもを通わせている人の話を聞くと、(もちろんどこで何をやるかによるが)特に、私が小学校の頃になかった要素で素晴らしいなと思う要素がアップデートされているのを感じる。それは、民主的な複数のステークホルダーとの対話をきちんとストラクチャーできていることだと思う。

単に自分が問いを立てたプロジェクトや対象課題に対してリサーチを続けていく、というものだけでなくて、人と人の関わりとしての対話や協議ということも1つのプロジェクト化されていて、皆で話し方や意思決定プロセスを試行錯誤するような感じだ。これは本当に素晴らしいと思う。PBLは「学習者が問題を発見し、解決の見通しをつけて実行し、何らの形で結論を得る」というプロセスがあるが、最後に必ず「ショー」(他者に見せ、議論し、さらによくする)というものがあった。

30年前の千葉大附属小学校での経験では、劇や発表を含む様々な「ショー」は結構あったけど、そのあとの議論や対話はそこまで深掘りできていなかったように思う。(実はそこが子供ながら悶々としていたところである。それはまた今度書くとして、意思決定に子どもが参画できていない感じがあったのだ。)

プロジェクトベースの安売りが始まり、衝撃を受けている

ただ、「ーーーを探究しよう」みたいな「探究学習」を取り入れた、という子供向けの講座などをよく見かけるようになると、「探究ってそういうものだっけ」ともやもやしている。

本来は「問いは自分で立てる、見つけてくる」というところが重要な気がするのだけど、やはり大人が講座に子供を通わせたりお金を払ったりすることを考えると、一定の「枠」を用意しないとあまりに領域が広すぎるのだろうか。「数々のテーマでお子様の「もっと知りたい!」を引き出します。」みたいな売り文句で、「探究型学習」を取り込んだ塾が発生している。だけど蓋を開けてみると、問いを立てるプロセスとかやっぱり少なさそうな感じで、知識のインプットの仕方が変わっただけだなあ、という感じがする。「引き出す」とかわざわざ大人がやる必要ないんだよな、とか、思って見ている。

私が経験した千葉大附属のPBLの実験と黎明期の先生たちの取り組みは、「ーーを探究しよう」みたいな限定も全て取っ払っていたような記憶がある。自分でその対象まで選び取り、掴み取る。自分の中からテーマは日々熟成されて、emergeしてくるものである。選ぶプロセスは結構乱暴だったと思うし、誰もお膳立てもしなかったようにも思う。でも、乱暴で粗雑で荒削りだったから楽しかった部分も多々あったように思う。

最近のSTEMとか探究学習とか21世紀型スキルがどうのこうの、という文言が、全くすっと頭に入ってこない理由は、なんとなくここにある気がしてならない。すごく重要そうなんだけど、「結局大人が教えたそうなこと」な気がする。多分、カオスな教育現場をさらにカオスにするような要素を盛り込むこと自体、教育事業を収益化するには難しいんだろう、ということはよくわかる。だからかどうかわからないが、なんとなく「子どもに将来的にビジネスで成功して欲しいと願っている大人が喜びそうな単語」に集約されていっている。結局「医学部に入って欲しい」から「起業家になってほしい」に変わっただけのような気がするのだ。

パートナーと話していて気づいたのは、「なにかひっかかるのは、本当に子どもがやりたいことなのかわからなくて、大人が理解するために作られたような気がする。結局大人の買い物だ。しかも大人が与えようとしている。おこがましい。」ということだった。多分、PBLという教育を受けてこなかった、日本中の大半の大人のために、理解しやすいように作られた言葉たちが散りばめられている気がするのだ。

PBLというものの中で育った人間からすると、窮屈そのものでしかない。

知らない間にPBL第一人者の先生の後を追っていた

自分たちが「うーん、違うな」と感じる言葉を避けて、自分たちなりに「これかなあ」と思いながら辿り着いたのが、「長野・飯綱で行われている教育」だった。この山には、いいづな学園という幼稚園と小学校・中学校が存在する。その周囲には、教育に対して一定コンシャスな状態のコミュニティがいる。

決して順風満帆ではない、この学校のヒストリーを最近はよく耳にする。当然だと思う。これは一つのスタートアップだからだ。しかも、とても複雑で、とても収益性がだしにくい、ステークホルダーが多々いる、コミュニティビジネスのソーシャル・スタートアップの1つだと思う。さまざまな人は過大な期待をしすぎたりするようだけど、私は失敗も成功のうちだと思っているから、この波乱万丈の経過を楽しむしかない、と思っている。

そうして山の中にある教育の歴史を紐解いていくと、上杉賢士という先生の存在を知る。日本のPBL研究の第一人者であり、いいづな学園の2代目の校長となった方だ。彼が登場するビデオをいいづな学園の子供たちが作ったものがYoutubeに上がっていて、そこで彼の国語の授業が素晴らしいことがわかる。

あまりオンライン上に情報は残っていないのだが、千葉大で研究をされて、千葉大附属小学校にもいた方なので、もしかしたら前述の工川先生たちが実施していたPBLの実践研究の仕組みと方向性を牽引した方だったのではないか、ということを最近知った。なんとなく彼の名前を工川先生がどこかで話していた記憶があるのだ。彼が育てた、または一緒にPBLを学校に持ち込んで研究してた教員の一人が、上述の工川先生だった可能性が高い。そして、30年後、彼が育てた教員たちが、今、この山の学校を支えている。なんとも感慨深い偶然。

昨年亡くられてしまい、私は出会うことがなかったが、出会っていたらたくさんのお話しができただろうと思う。千葉大のあれはなんだったのか、彼の口からたくさん聞けて、彼が気づいた教育を受けて、その後を辿って育ってきた私が、どういうことを考えてきたかを話したかった。

PBLを選択し、投資した母たちの決断

私の母は、終戦記念日に生まれ、戦後と高度成長期の中、女性の機会平等もない時代に、教育を受けて仕事を手にし主婦になった人だ。母は、祖父が早い段階でがんで亡くなったが、当時「大学にいく女」などは殆どいない中、自分で死ぬほど勉強して奨学金を得て、御茶ノ水女子大学に入学を果たす。そこで教育学を学んだ。論文は「性教育」がテーマだったというから、驚きだ。

母がなぜ千葉というのを選んだのか、いろいろ話すことはあるが、どうやら千葉大附属に入れたかったらしい、ということはよく分かる。上杉先生のことやPBL的な取り組みについては明確に知らなかったようだが、千葉大附属の幼稚園では「体験学習」を、小学校では「総合学習」を、当時もう既に公教育の中に取り入れていたから、子供3人を全てそこにいれている。教育学を学んでいた彼女にしか手に入らない情報が多々あったと思うが、その中で千葉だ、と踏んだようだ。そして、兄が生まれたと同時に、東京の杉並から移住した。排気ガスで喘息がちになっていた兄のため、と言う理由も聞いたが、実はその時の両親の選択肢のありかたは、私たちが数年前に「移住」を選んだ理由と変わらないのではないか、という気がしている。

途上国で仕事をしていた時に何度も耳にしたのは、「母親の教育が、子どもの教育を左右する」という概念だったが、今考えると、私の教育に関するさまざまな選択は、母が御茶ノ水大学で勉強した教育学とその知識から始まっている。さらに言えば、母が当時にしては大胆な進路を選ぶことができたのは、祖母の大胆さからきていると思う。

そういう意味でいうと、私の母の選択は「PBLを選びながら」「お受験もさせる」という両方を選び取っているのだが、「受験」は過酷な割に一過性のものでしかないという必要悪として、それを通過した後に待っている良質な教育、に期待をしていた。私はエスカレーターで千葉大附属中学には行かず、中学受験をしているのだが、兄と姉が行った中学ではそこまでPBLが影響した教育内容ではなかったのと高校受験が熾烈だった、ということが原因だったようだ。

受験とはなんだったのか

今思えば、さまざまな受験を経験しているが(中学受験、大学受験、大学院受験、社会人になってからの海外の大学院受験)一言で言うと、中学受験は知識としては何も覚えてないし何も残っていない。体の奥底になんらかの知識の端くれは残っている可能性ももちろんあるけれど、現在、産後の脳味噌にそれを掻き出すCPUはない感じがする。覚えてない。

ただ、「勉強の型を見つける」というのと「競争に挑戦して克服する」という二つにおいて役立ったと言える。つまりプロセスの形成だ。自分の脳味噌の容量を増やす術や記憶曲線に沿った形で自分の知識を定着させる術を身につけたり、あがり症など一定のストレス下における自分の状態を冷静に判断する方法などは身についた、と思う。自分が受かれば誰かが落ちるという、他者を蹴落とさなければならないことのシビアさや辛さも知った。そういう意味では「面白い経験だった」と今なら言える。

中学受験の当時は自分がとても楽しんでいたし、ゲーム感覚だし、学ぶことが楽しく、苦でもなかった。でも、今考えると、中学受験をしたおかげで発生した機会損失などの犠牲はそれなりに大きかったから、正直自分はもう2度と経験したいとは思わない。私は自分の子供を中学受験させたいか、と言われたら、答えはNOであり、あの時から30年も経ってるんだから進学や進路選択というものは、もっと違うあり方や違う形があるだろうと思っている。

なぜ受験を「機会損失」だと感じたかというと、それは世界に出てから感じたことだ。イギリスのLondon School of Economics(LSE)で学ぶ機会があった時に、同級生に飛び級をしてきたマレーシアの女の子がいた。私は21歳、彼女は17歳で、英語も何もかも全て私より遥かに上で、コミュニケーション能力に長けて、ロンドン生活をすぐに満喫できていて、うらやましかった。彼女は「自国で自分の好きなドラマだけをものすごい量見てた」と英語の習得方法について教えてくれたのだ。イギリス人の英語についていくだけで四苦八苦していた、同じクラスにいたイタリア人の同級生と私は唸った。そうかあ、好きなドラマだけ見てたのかあ・・・。

日本の受験を経た後に苦しいな、と思うのは、まさにこれである。「そつなく、いろんな科目ができる」ことが要求されて、「一つのことだけ尖ってできて他ができない人」は落ちこぼれる。そして、その受験を経て進学校に入ってきた子たちが悩むのは、「全部できるから選べない」という悩みだ。それに加えて、親たちの過度な期待を敏感に察している。「親は医学部に行って欲しい様子だけど、私は本当は劇をやりたい」とか。ものすごく両極端なものが両立して存在していたりするわけだが(だが人間の天才性のあり方としては自然なことだ)、残念なことに1つにエネルギーや時間を集中投下できないので、両方において「世界で通用するレベル」とかには(親の積極的なサポートがない限り)なるのが難しい。それで進路に悩んで、親とぶつかりまくり、荒れに荒れる桜蔭の中学・高校の友達はたくさんいた。あれもいい思い出だが・・・。

中学は「受験ではそつなく全ての教科でそれなりの点数を取らないと入れない」くせに、中に入ってからの先生たちは結構アバンギャルドで個性的で波乱万丈で、変人で、社会性のない人たちばかりだった。だから、やはり「変態でいいんでしょ」とか「社会に不適合でも面白いことすれば生きてけるじゃん」みたいな不思議な自己肯定感を与えてくれるものだ。面倒くさいのは「受験」と「誰かからの期待」だけで、それだけが「そつなく」を要求してくるのである。

受験は面白い経験だが、日本の受験は「そつなく、皆より少し上くらいにできる」を目指すのでそれが苦しい結果になることがある。少しあとでの進路の選択肢を狭めないように、という配慮なのだが、一方で、没頭し尖っていく機会を損失している、とも言える。日本で生きていくのに程よい感じに飼い慣らされて、とんがったり、本当に社会にインパクトを与えたり、誰かの人生にインパクトを与える人間になるための教育じゃない、という感じがする。

PBL的経験の基盤はその後のどんな挑戦も平気にしてくれる

PBLや探究学習についての巷での理解では、「好きなものに没頭するフローの時間」や「本当に好きなものを見つけられる」という点がとかく強調され、たまに「自分の子どもは好きなものを見つけられなかったから、PBLや探究に向いてなかった」とか「自分の子どもはジェネラリストだから」と言う親がいるのだけど、なんかそうじゃない。

私が一番身についたのは、「新規分野の挑戦」に対する「独学」への躊躇のなさだ、と思う。PBLでは「自ら問いを立てる」→「調べる」→「一定の回答を出す」→「アクションへ移す」というプロセスを順繰りやり続けるわけだが、自分が問いを立てたものに対して解決するプロセスに必要なら、まだ身につけたことがないスキルや知識もどんどん身につけリサーチしていく、ということが体に染み付いている。

私の会社のチームが、私と仕事をする時の文化を形容する時に、「詩野さんと仕事すると、『やったことがありません』が言い訳にならない」と言っていたが、まさにそれ。「じゃあ、やれば?」「じゃあ、身につければ?」「じゃあ、勉強すれば?」というところに障壁がないのである。大人になってから「独学を怖がる人たちがいるらしい」ということを知った(ので、それが一定の人にストレスになるということも知ったが・・・)。

PBLという枠組みに入ってなくても、実は「良い学校」や「良い先生」的な存在というものに出会うと、「自ら問いを立てる」→「調べる」→「一定の回答を出す」→「アクションへ移す」というプロセスを組み入れていることが多いと思う。小さな頃に大好きだった、マンションで子どもたちに教えていた絵の先生も、いろんなことを教えてくれた近所のおじさんも、塾でチューターをしていたアルバイトの学生も、記憶に残っている人たちは皆、この余白を与えてくれた人たちだった。そのプロセスを見守り、伴走し、必要な時に助けてくれただけだ。彼らがそばにいて学んだことは、今でも覚えている。学校や塾という枠組みの中である必要性もない。コミュニティにそういう伴走ができる人が多々いれば、それだけでその地域で育つ子たちは、新しい物を恐れない適応能力を持つのだと思う。

会社も同じだと最近強く感じる。今、私の代表取締役としての仕事は、ある意味、社員や業務委託などでチームとなっている人たちのPBLがずっと続いていくのを、伴走しているだけだ。毎日、みんなの問いを立てることを伴走し、その人たちが新しいことを学ぶための躊躇や障壁を一緒に取り除きながら、どんなインパクトを産めるのかを一緒に考える。もちろん、そこに経営リソースの限界などがあり、できるできないの判断を私がしなければならない点は多々ある。私たちの組織のリソースでできないのであれば、場所を変えればいいだけ、つまり転職や組織を離れるということにもなる。でも、それはネガティブなものではない。

自分の子の学びにどう取り組むか(後編へ)

ここまで書いて、さて、では今考えている「今山奥にいて、子どもの教育とかどう考えているのか」に関して書きはじめようと思ったが、すでに8000字を超えているため、その備忘録的記録は、次の記事にまとめようと思う。

そちらも長くなりそうなのだが、現時点で私が至っている様々なコンセプトや、なぜこの自然の中に身を置いているかなどが、全て線で繋がりつつある。それについて、他者に伝えられる言葉で記載して、また公開したい。

とりいそぎ、次回へつづく。

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