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白い家

第1章  真白の箱 (8)

 研究室は冷房をつけている為か、6月の湿った外気とは違って、ドアを開ける度、ヒヤッとした。長袖の白衣に腕を通し、あがってきたサンプルに手をかけた。数名が研究室内にいるが、皆一様に会話することもなく、サンプルをピペッティングするものもいれば、分析装置のディスプレイを一心不乱に見つめている者もいる。 

 私は、彼らの素性を知らない。あくまで、同じ研究室にいる同僚。何を考え、仕事終わりにどこで過ごしているのか、恋人はいるのか、一切知らない。

 休憩時間、コーヒーを飲みにラウンジへ行くと、田中梨花がいた。
  ”おつかれさまです。”
梨花は、スマホを片手に、目配せをして言った。
  ”どう?順調?”
私が聞くと、梨花は
  ”何がですか?”
と、私に目を合わせず、クスッと笑った。
  ”田中さんなら、色々順調そうだよね。仕事もプライベートも。”
私は、自動販売機に社員証をかざし、<ブレンドコーヒー 砂糖なし>を選択した。
  ”由里子さんは、順調じゃないんですか?”
梨花は、悪戯っぽく言いながら、いじっていたスマホをテーブルに置いた。
  ”まあ、色々考えるよね。30近くになると。”
思わず、ため息と本音が出た。封じ込めるようにコーヒーを飲もうとしたが、熱すぎて、まだ飲めなかった。
  ”由里子さん、今度、合コンしませんか?この前飲んだメンバーでまた飲  もうって話になっているんですけど、集まり悪くて。”
梨花は、思わず天井を見上げて、ため息をついた。 
  ”私なんか行って駄目でしょ。おばさんだよ。”
  ”ええっ!そんなことないですよ。由里子さん、綺麗だし、オトナ女子っ  て感じですよ。私、実は由里子さん、ずっと目標なんですよ。”
本当か嘘か、梨花は目を輝かせて言った。それが例えお世辞だとしても、素直に嬉しかった。

 私は、結局断る理由もなく、梨花の押しが強かったこともあって、承諾してしまった。この約束が、後に私の運命を大きく変えることになるとは、この時は微塵も思っていなかった。

   
 

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