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「お気に入りの物」に褒めてもらった

雪が降るとつらい。
天候が雨や台風だったり、気圧の変化がおおきいとつらい。他にもいろいろと「つらくなる」トリガーや条件はある。
でもそういう、しんどい波が来る時以外は元気だし、働いているし、服やコスメを買いに行くし、映画館に通ったりするし、わりと楽しく過ごしている。
が、ともかくつらくなる時はある。そしてそれは突然やってきて、その時だけは「重病人か?」と自分でも驚くくらい本当になにもできなくなる。

そういう体質とずっと付き合ってきた。

このつらい、というのは適確に言葉にしづらいのだけれども、電車で立っていると足が震えてしんどいから座りたいだとか、そういうごく軽い「しんどい/つらい」の時もあれば、本当にベッドに横たわったまま、一日なにもできずに空腹を抱え続けている状態の時まで、さまざまな度合いや種類がある。
(お腹が空いているという自覚はつよくとも、とにかく手足に力が入らず、枕もとに置いてあるiPhoneに手を伸ばす、程度の動きだけで精一杯なのだ。そもそも冷蔵庫まで這ってすらいけないので、こうなるともう食事は諦めてひたすら時が過ぎるのを待ち、天候が変わるまで耐えるしかない。天候が変われば、またいつものように動けるのだから)

これは障害の特性のひとつなのだけれど、いまにいたるまで「こういう時はこうする」という対処策まではたどり着けたが、「こういう時にこうすると良くなる」までにはいまひとつ行きつけていない。
勘弁してほしい。おかげで昨夜から今日の昼過ぎまでも、このひどい雨と気圧のせいで、飲み物の摂取すらできずにベッドで倒れていた。
ようやく気圧の低下が弱まってきた頃、こういう時のためにストックしている介護食をお腹に入れて、起き上がりだした。

ところで、ここからが本題なのだけれど。
少し前に好きな小説家の方がエッセイ本を出した。
もとはネット上で連載されていたものを書籍にしたもので、概要としては三十代の独身女性が家を買う過程を、その小説家の方が取材した、といったところである。

ネット連載当時の記事もまだ残っているのでそこから引用するのだけれど、ちょっといいな、と思った発想があった。

もし、あなたが孤独でも、自分で家を買ったら、毎日そこへ帰るたびに、あるいは家賃収入があるたびに、家が自分をほめてくれるだろう。会社でつらいことがあってだれも助けてくれなくても、家があなたを受け入れ全肯定してくれる。「おかえり、お疲れ様。おまえはすごい。よくこの東京でたったひとりで家を買ったな、えらい」って。
https://otekomachi.yomiuri.co.jp/news/20180912-OKT8T100653/

家を買う買わないは別にしても、確かに部屋や、物や、とにかく自分自身じゃない、かといって他人でもない「物」は褒めてくれる。

ちょっといいコスメでもいい。お気に入りのお洋服でもいい。
趣味で買ったなにかや、お気に入りの本や、「買った家」でないにしろ、「自分にとって居心地良く整えた部屋」でもいい。

そういうものは確かに褒めてくれるなと、ベッドで倒れて空腹を抱えながら、ぼんやり思った。

つい先日、友人が遊びにきたので、部屋を整えたところだった。
その少し前に棚をひとつ買い足したので、ちょうど所持品を使いやすい位置にまとめ、導線を考えて収納し直したところだった。

ベッドでうめきつつも、そういう、自分が試行錯誤して整えた部屋は視界に入った。
体調が悪い時が続くと、往々にしてネガティブになるものだ。
けれども、今日は部屋を眺めながら、ふとこういう気持ちになった。

「でも私、普段はこの部屋を、こんなふうに整えられるくらいには、頑張れてたじゃん。体調悪いのは今だけだし、シンクにはこの二、三日の食器が重なってるし、机の上には介護食の器が重なってるけど。でも、この間収納を変えて、枕もとにはいま必要なものが取り出しやすいように揃ってる」

頑張ったことを、形として残していると。
欲しいなと思って手に入れたものを、身の回りにおいておけると。
自分が弱った時、少し元気をもらえるらしい。
なにかしらの影響で自分を客観的に見られなくなっているときこそ、そういう、自分の主観以外で、自分のこれまでの頑張りを主張してくれるものが必要なのだろうと思う。

ちょっと、いいことだなと思ったし、安心した。

次にベッドから起き上がれなくなったときのために、また元気になったら私は、おそらくなにか特別にお気に入りなものを手元に用意するだろうと思う。
次は今回よりももう少し、穏やかに天候の不順と体調のつらさを乗り切りたい。

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