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通奏低音の響く街 修 6-(2)

  ディズニーランドから帰った翌日、待ち合わせ場所の公園にいたのは春菜だった。彼女が和泉から預かったというルーズリーフを折り畳んだ手紙を開くと、ほんの一行のメッセージが飛びこんできた。
「もう、恋じゃなくなったから続けられない。別れよう」
 

   文字が脳を素通りし、意味を結んでくれない。何度も読み、次第にそれが現実として落ちてくると、何かの悪戯ではという思いが脳裏を過る。和泉が「ひっかかった!」と笑う姿を想像しようとする。だが、いつもより角ばった和泉の文字は、そんな希望など一切受け付けない冷たさを放ち、厳然とそこにあった。歯ががちがち鳴るのは、冷たい北風のせいではない。修は思わず指輪をしている左手の薬指を右手で強く握った。これが現実であっていいはずはない。修は弾かれたように自転車に跨り、猛スピードで和泉の家に向かった。今すぐ彼女を捕まえ、何としても思い留まらせなくてはならない。彼女を抱き締められなくなるのは、世界が崩壊するよりも恐ろしい。
 

   和泉の家の前で乱暴に自転車を止め、狂ったように呼び鈴を押す。誰もいない家に、虚しく呼び鈴が響く様子が浮かぶ。今日は従姉妹の家に泊まると言っていた気がするが、それがどこかなど知らない修は、肩で息をしながら立ち尽くした。
  火照った体は、息苦しいほどの木枯らしにさらされ、熱を奪われていく。冷えていく体は、動転した頭をいくらか正気に戻す。体が冷えるにつれ、自分にこんな思いをさせる和泉への怒りがむくむくと頭をもたげてくる。結婚したいと甘え、「ずっと一緒だよ」と言っていた女が、なぜ三カ月も経たないうちにこんな手紙を書けるのか。百歩譲って、心変わりを認めたとしても、結婚を考えるほど真剣に付き合った相手なら、逃げずに、誠実に話し合うのが筋ではないか。
 付き合い始めてから、今までのことが時系列を成さずにぼこぼこ浮かんでくる。初めてのデートが決まった時のくすぐったいような胸の高鳴り、どれほど抱きあっても飽きることのない愛しさ、結婚したいと言われたときの頭がしんと痺れた感覚、街の雑貨屋で二千円ほどの指輪を買って交換したときの気恥かしさとじんわり胸に広がっていった幸福感、際限なく性欲をかき立てる躰に溺れる高揚感……。彼女の存在が、どれほど自分に自信を与えてくれただろうか。彼女にとっても、自分がそんな存在であると信じていた。なぜ、彼女はそれをたった一行で終りにできるのか!
  怒りは募るが、何よりも確かな思いは彼女を永遠に手放したくないことだった。それが愛ゆえか、結婚の約束まで交わした執着か、その両方なのかはわからない。説得して関係を維持したとしても、こんな仕打ちを受けた後で、以前のように盲目的に愛することができるかわからない。だが、たとえ世界が終ったとしても、自分と和泉が別れることなどあってはならなかった。

 

  冬の朝の冴えた空と弱々しい朝日が目に痛い。彼女に会えないまま22時ころ帰宅し、眠れない夜を過ごした修は、自分が人生最大の危機にあるのに、いつもと変わらぬ朝が来たことに違和感を覚えた。他方で、太古から繰り返されてきた夜が明けるという自然の営みは、自分たちも案外簡単に元に戻れるのではというほのかな希望も抱かせた。
「本当にこれでいいのか?」                                                                             修はたぎる怒りを押し込め、穏やかに、だが一歩も引かない姿勢で和泉に尋ねた。彼女のなかにまだ燻っていると信じる自分への愛情を呼び起こすことにすべてを賭けた。
  家の前で待ち伏せされた和泉は、追い詰められた小動物のようだった。目を伏せ、片手を口元に当て、心底困っている。健康的な浅黒い肌は気の毒なほど青ざめている。ほんの数カ月前、彼女を苦しませるものに本気で腹を立て、その全てから守ってやりたいと思った。その自分が、彼女にこんな苦しげな顔をさせている矛盾が悲しかった。そんなことを考える自分は、まだ彼女を深く愛しているのだと実感させられた。
 修は万感の思いを込めて語りかけた。「俺たちうまくいってたじゃないか。悪いところがあれば直す。だから、別れるなんて言わないでくれ。これからも俺に和泉を幸せにさせてほしい。和泉、幸せな家庭がつくりたいって言ってたろ? 俺とつくろう」
「ごめん。それはできないよ」和泉は修を見据え、きっぱりと告げた。
  その冷淡さが押し殺していた怒りを炸裂させた。「何でだよ! 今まで言ったことは、全部嘘だったのか? それが全部嘘なら、俺……、一生、人を信じられなくなる!」
  修の悲痛な叫びが、朝の清澄な空気を切り裂いた。和泉は家族に聞こえないかと気にしているようだが、今の修にそんなことを気遣う余裕はなかった。
「ごめん……、本当にごめんね」和泉は弁解の余地はないことを十分に意識し、謝罪を繰り返した。一列に並んで登校する小学生が横を通る。一番大人びた顔をした女の子が、高校生の修羅場を興味津々の目つきで見ている。和泉は居心地悪そうに俯く。
  修は小学生が通り過ぎるのを待って続ける。「俺達は真剣に愛しあった。それは真実だろ? 真剣に付き合った相手なら、紙きれ一枚で逃げないで、しっかり向き合って、話し合うのが筋じゃないのか? あんな紙きれで別れを告げられて、俺がどれほど傷ついたか……。それを一瞬でも考えたか? 俺はおまえにとって、こんな扱いをしてもいい男だったのか……」修の声が詰まった。
「修のこと本当に大切に思ってたから」和泉は絞り出すように言った。「傷つけあって別れたくないから……、こうするしかなかったの。わかるでしょ、わかってよ……!」
 和泉は苦しそうに言い放ち、自転車のハンドルに両手を掛け、スタンドを外した。
「わからない……。どうしてこうなったか、説明してもらわないと納得できない!」
  修は和泉の両肩を強く掴み、自分に向き直らせた。彼女の薬指に指輪がないことに胸を切り裂かれそうになったが、歯を食いしばって耐えた。修の気迫に圧され、和泉の体が強張ったのがわかった。逃がしてほしいという思いが体全体から溢れている。修は構わず、「和泉が逆の立場だったら、納得できる?」と詰問するように尋ねた。和泉は暫く黙っていたが、「できないね」とつぶやき、観念したように話し出した。
「傷つけちゃうのが辛いけど、本当のこと言うね。修も気付いてるでしょ? 付き合ってるうちに、段々わかってきた。私たち合わない……」なぜと尋ねる修に、和泉はよどみなく続けた。「私は普通のカップルみたいに……、春菜たちみたいに、ディズニーランド、ボーリングとかカラオケ、ゲーセンとか、スケートとかを普通に楽しみたかった。普通に面白い話をして盛り上がりたかった。私達……」
 修は心の中で、和泉が飲み込んだ「そうじゃなかったよね」という言葉を聞いた。彼女の言葉は真実だけが持つ力で修の胸を切り裂いた。彼女のなかに積もっていった違和感が、容量を超え、とうとう耐えきれなくなってしまったのにいま気づかされた。
「スケートもカラオケも、練習して、笑って楽しめるようにする。会話が弾むようにもっと努力するから。俺の努力が足りなかった、甘えてた!」修は恥もプライドもかなぐり捨て、和泉を取り戻したい一心で食い下がる。
「修が一番よくわかってるでしょ? 人間、そんな簡単に変われたら苦労しないよ……」和泉の声には憐れみが混じっていた。
  和泉はミッキーマウスのイラスト入りの腕時計に目を走らせると、修に向き直り、「今までありがと。それから、来てくれてありがと」と曇りのない瞳で告げた。修は受け入れるのを拒むように激しく首を振る。唇はわなわな震えていた。
  和泉はこれ以上修を寄せ付けない冷徹な仮面をまとうと、自転車に跨った。我に返った修は自転車のハンドルを掴み、震える声で訴える。「俺たちは抱き合ったりキシュしたりして本当に満たしゃれただろ。エッチだってうまくいってた。俺の顔も体も好きだと言ったろ。君はそれを失くして平気なのか?」
 和泉の瞳に未練を思わせる影がさっと走り、かすかに潤んだ。修はそれを見逃さなかった。指輪をした左手で和泉の右手を優しく掴み、幾度となく貪りあった温もりを思い出させようと抱き寄せた。だが、和泉は渾身の力で拒み、「それだけでつながっているのは違うと思う」と顔を歪ませ、逃げるように走り去った。修は振り払われた手を宙に浮かせたまま、グレイの鞄を背負って自転車をこぐ和泉の背中が小さくなるのを茫然と見送った。

    なぜ自分は、皆が「普通」にできることができないのか! ボーリングもカラオケも、スケートも楽しい会話もできず、ディスニーランドでもゲーセンでも楽しめない自分は、誰と付き合っても、こんな終りが来るのではないかと暗澹たる思いに飲み込まれた。背負ってきた生き辛さが耐えきれない重みとなってのしかかってきた。