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連鎖 3-(3)

 凪は遠慮がちに頷いた。

 香川の瞳と髪の色こそ黒だが、彫りが深く、鼻梁の高い顔立ちは西洋人の血を彷彿させた。凪は口数の多くない彼が、自分のことを話そうとしていることに戸惑いながらも、好奇心を抑えられなかった。

 凪は他人の打ち明け話を聞くのが苦手だった。相手が、当時のことを思い出して涙するのを見ると、どうしていいかわからなくなってしまう。香川がそうならないかとびくびくしていたが、そうなったとしても、自分はただ黙って寄り添うしかできないと思った。

 香川はピアノ椅子に掛けたまま、1語1語を絞り出すように話し出した。
「私の父はハンガリー系アメリカ人で母は日本人だ。母は奨学金を得て、作曲を学ぶためにアメリカの音大に留学した。ペンシルバニア州の音大に在学中、母はチェロ弾きの先輩と恋仲になった。卒業後、母はその先輩が就職したオーケストラの楽譜係ライブラリアンになった。2人は結婚して、私が生まれ、母は仕事を辞めて育児と家事に専念していた。両親は1人息子の私に、4歳の頃からピアノを習わせた。息子にピアノの才能があるとわかると、コンサートピアニストにしようと有名な先生のレッスンに通わせた。順調に上達した私は、全米ユースコンクールで優勝して、オケとのピアノ協奏曲も経験した。あの頃は、拍手とブラボーを浴びて鼻高々だった……」

「さっきリストを弾いていたのは……、ハンガリー系のお父様の影響ですか?」

 彼は肯いた。「父方の祖父はユダヤ系のハンガリー人だった。アメリカに移民してからも祖国の音楽を愛し、アメリカ生まれの父にもリストを聴かせた。その影響で父もリストが好きだった。仕事一筋で家庭的とは言えない父だったが、私のピアノの上達には厳しくて、うまくリストを弾くと褒めてくれた……」

 香川は、過ぎ去った時に思いを馳せるような眼差しで、窓の外に目を遣った。

「いろいろなことが狂い始めたのが13の頃。ピアノの先生のところに、中国系の少年が入門してきた。彼の演奏は色彩豊かでオーケストラを聞いているようだった。彼の奏でる音の1つ1つがきらきらと輝いていて、自分の音が味気なく思えた。もっとも、彼の曲の解釈は好き嫌いが出るもので、どちらかというと正統派の私を評価してくれる人もいた。でも、私にはわかった。彼のほうが観客を魅了するピアニストになると……」

 香川は音楽室の両側の窓を開け放ち、日が傾きはじめて、ようやく出てきた風を入れた。生暖かい風が二人の髪を乱し、音楽室を通り抜けていった。

 香川は、音楽室をゆっくりと歩き回りながら話を続け、凪はその姿を目で追いながら耳を傾けた。

「同じアジア系なので、彼とはよく比べられた。私は彼を意識して練習しすぎ、ひどい腱鞘炎になった。しばらくは、湿布や注射の対処療法で続けていた。でも、少し良くなった時に無理をして、また悪化させる繰り返しで、満足に練習できない日々が続いた。国際コンクールで奴と戦う心積もりだったのに、ペンを握るのも億劫なほど腱鞘炎がひどくて、出場さえできなかった。私はピアノが弾けることで一目おかれ、それが重要なアイデンティティだった。だから、自分は何の価値もない人間になってしまったと思い詰めて、家に閉じこもるようになった。そんな息子を見るのか辛かったのか、父の酒量が増えた。母はピアノばかり弾かせたからだと父を責め、喧嘩が絶えなくなった。やがて父は仕事に集中したいと出ていった……」

 凪は、彼が奏でたリストに、去っていった父への思慕と、燃やしきれなかったピアノへの情熱が込められていたから、あれほど切なく響いたのかと思いを巡らせた。

「母は熟慮の末、俺を連れて日本に帰国することにした。祖父母の家は、まあまあ余裕のある農家だった。母と14の私はそこに身を寄せ、山の冷気とむせ返るような緑の匂いのなかでの生活が始まった。私は地元の中学に通い、母はピアノと英語を教え始めた。アメリカでも母とは日本語で話していたし、日本語学校に通ったことはあるけれど、私の日本語の読み書きは中学生レベルではなくて、授業についていけなかった。この外見で日本語も変だから、随分いじめられたな」

 凪は、ピアノで栄光を味わった彼が、日本語の下手な少年になり下がる屈辱に耐えたと思うと胸が痛んだ。彼の口数が少ないのは、不自由な日本語を笑われるのを恐れた名残だろうか。

「日本に帰ってから、母の弾いていたピアノを弾いてみたが、長い曲は痛みが出てだめだった。先が見えなかった私は、何を言われても苛々して、母と言い争いばかりしていた。祖父母とは言葉と文化の壁で最初はなかなか心が通わなくて、それもストレスだった。母は、決して経済的に余裕があるわけではないのに、少しでも息子の気晴らしになればと、歌舞伎や演劇、ミュージカルに連れていってくれた」

「『ラ・マンチャの男』をみたのも、その頃ですか?」

 香川は肯いた。「あの頃、私は本気でピアノをやめようと思い詰めていたんだ。祖父母や母の話を盗み聞きして、本格的にピアノを続けるのは、経済的に厳しいと察していたし、手が治ったとしても、前のレベルに戻せるかと不安だった。まあ、本当のことを言えば、自分の限界を思い知らされるのが怖かったんだ……。でも、あの台詞を聞いて、ピアノが弾けない人生に折り合いをつけるのではなくて、第一線にいられなくてもピアノと関わっていきたいと思った。それが、自分のあるべき姿だと思った。手が回復すると、東京で良い先生について奏法を変えて、音大付属高校の受験に備えた。レッスン代と交通費は父の慰謝料と祖父の貯金で賄えた。間に合うかと不安だったけれど、『見果てぬ夢』を口ずさんで自分を励ましていた。運良く合格できて、高校時代は東京で過ごした。大学は地元に戻って、卒業後は見ての通り音楽の先生だ」

「教育学部に進んだのは?」凪は遠慮がちに尋ねた。

「経済的な理由だ。私が高1の冬、母が再婚したんだ。再婚相手は、私と折り合いが悪く、私の学費を出してくれるだけの余裕もなかった。私のことで母が再婚相手ともめるのを危惧した祖父が、高校の学費を援助してくれた。祖父の貯えと奨学金で、卒業までの学費と生活費は絞り出せたけれど、それが限界だった。高校に付属する大学の全額費を奨学金で賄えるほど優秀でもなかった。年老いた祖父母や母の幸せを考えると、早く安定した職に就いて、自立しなければと思った。だから、金のかかる音大進学を諦めた。実家で祖父母と暮らしながら、地元の国立大で教育音楽を学び、教師になると決めた」

 凪は、実力と容姿、語学力を兼ね備えた彼がピアニストになっていたら、聴衆を引きつけて止まず、世界中のマエストロと素晴らしい演奏をしたのではと想像した。彼の葛藤は計り知れなかっただろう。凪は躊躇いながら尋ねた。

「コンサートピアニストを目指さなかったこと、後悔していないんですか?」

 香川は寂しく笑った。「正直、割り切るまでに時間はかかったが、自分の限界はわかっていたから、これでよかったと思う。実は、音楽教師もいいなとは、高校のときから思っていたんだ。高1の夏、卒業した中学の吹奏楽部の顧問から、少し見てくれないかと頼まれた。自分の指摘でどんどん演奏が良くなるのが嬉しくて、吹奏楽部の顧問をしてみたいと思った。それから毎年、母校の吹奏楽部を訪ねて、指導させてもらっていたんだ。そのときの経験が、いま役立っている。今の目標は、私が指導する部を全国大会に連れていき、金賞を取ることだ」

「先生は……、この部を立て直して、コンクールに出られるようにしようと戦っているのですね?」

 香川は肯いた。「私のなかには、いつも『見果てぬ夢』が流れているからな」

 凪は何か深みのある言葉を返したかったが、何を言っても浅薄に響きそうで、どうしても言いたいことだけを不器用に伝えた。

「先生、貴重なお話を聞かせていただきまして、ありがとうございました。私もあるべき姿のために、戦ってみます」

「戦うのに疲れたら一人で抱えるな。俺はこの通り、完璧とは程遠い人間だが、力になれることもあるぞ」

 凪はこみ上げてくるものを抑え、ありがとうございますと心を込めて伝えた。香川は鍵盤に長い指を走らせ、「見果てぬ夢」を美しいアメリカ英語で弾き歌い始めた。その力強い歌声に送られ、凪は宗教裁判に挑むセルバンテスの気分で音楽室を出た。