「カモメと富士山」7
夢のなかで電話が鳴っている。規則正しい間隔で鳴る音を聞くうち、それが夢ではないと気づく。頭が覚醒しないまま起き上がり、ベッドルームを出て、コードレスの受話器を取る。窓から差しこむ金色のヴェールのような朝日が、全身に注ぐ。ソファに横たわり、ハローと応答すると興奮した母の声が飛びこんでくる。
「何、こんな朝早く。こっちは、まだ7時前だよ……」
昨夜は授業の予習で2時まで起きていたのだ。寝ボケ眼をこすりながら、勘弁してほしいと胸の内で毒づく。
「テレビ見てないの? 大変なことになってるわよ!」
海を渡って届く母の大声が、みしみしと頭に響く。日本は、西海岸より16時間進んでいるので、夜の11時くらいだ。早朝と深夜では、頭の覚醒の度合いが違うことを考えてほしい。
「何なの?」
眠っているミナさんを起こさないよう、テレビを点けると同時にボリュームを絞り、字幕を表示させる。
いつも見ているチャンネルに合わせると、超高層ビルに旅客機が突っ込み、煙が上がる映像が飛び込んでくる。覚醒しきれていない頭で英語字幕を追うので、脳の酸素の消費が激しい。映画かドラマかと思ったが、字幕とアナウンサーの声がそうではないと教えてくれる。ニューヨークのワールドトレードセンタービル北棟らしい。2機目が南棟に衝突したときの映像も出る。二機目の衝突は一機目の衝突から20分も経たないうちに起こったという。東海岸とは3時間の時差があるので、向こうは朝の10時頃。既に仕事が始まっている時間だ。惨事を想像すると背筋が冷えてくる。
「何……、これ。飛行機が故障でもした……?」
「わかんないけど……。富士美が大丈夫か心配で」
「東海岸のニューヨークでしょう。私がいるのは西海岸だよ」
「それはそうだけど……。そこは大丈夫なの?」
「大丈夫だよ、心配しないで。こっちはまだ早朝だから、もう切るね」
ソファに寝そべったまま、しばらくテレビを見ていると、ブッシュ大統領がこれはテロだと明言した。しばらくしてミナさんが起きてきて、別人のようにのっぺりしたすっぴん顔をさらす。彼女と共に、ワシントンD.Cの国防総省に旅客機が墜落した報を聞く。アメリカ史に残るであろう惨事の瞬間に立ち会っていることが静かに胸に浸透していく。研究一筋のミナさんは、野菜ジュースとシリアルの朝食を摂り、いつもと何ら変わらない様子で研究室に出かけていく。
キャンパスは、あまりの衝撃と悲しみから、沈痛な空気が流れている。抱き合って泣いている学生、星条旗を手に気勢を上げる学生も見受けられ、尋常ではない事態だと改めて認識させられる。衝撃的な映像が脳裡から離れないのに、見上げる空は吸い込まれそうに青く、太陽は容赦なく照り付ける。椰子の木も鮮やかな色の花々も、いつもと変わらず美しい。人間社会の悲劇から超然としている自然の営みが、悲しくも、救いにも映る。
帰宅してから、ペンシルバニア州でもテロリストに乗っ取られた旅客機が墜落したと知った。繰り返し流される崩壊するワールドトレードセンターのツインタワー、逃げ惑う人々と悲鳴、粉塵をかぶった人々の姿はまぶたの裏に焼き付いて離れない。
メディアの情報は錯綜していたが、イスラム原理主義者による犯行の可能性が指摘された。それを聞いた瞬間、アリシアのきりっとした眉と意思の強そうな眼差しが浮かぶ。彼女が憂慮していたように、イスラム教徒、中東・南アジア出身者へのヘイトクライムが起こる可能性が脳裡を走る。
何にせよ、ジョージの声が聞きたいと思ったが、何度かけても電話がつながらない。仕方なく、電子メールを送る。前日に電話で話したので、テロに巻き込まれている可能性はないだろう。不安が募っていくが、15日は私の誕生日だ。それまでには、連絡が来ると信じるしかない。彼を恋しく思う気持ちが募るほど、なぜ連絡をくれないのかと怒りが鬱積していく。その怒りは時間と比例するように肥大する。軽く扱われている憤りが毒のように体中をめぐる。大学の友人は、恋人や家族から安否確認の電話をもらっている。プライドの高い私は、恋人から連絡をもらえないなど、口が裂けても言えない。ジョージは、アメリカに身寄りのない留学生の恋人を心配することもできないのだろうか。どんな事情があるにせよ、電話1本、メール1通送るくらいの時間と余裕さえないのか。自分はその程度の存在であったのかと、心の空洞に冷たい風が吹き込む。恋人にこんな扱いをされたことはなかった。
★
ジョージと連絡がついたのは、テロから3日経った14日の夜だった。連日、リビングの電話の近くで待機していた私は、ひっつかむようにコードレスフォンをとる。
「ふーじみちゃん? 何度も連絡をくれたようだね。ずっと、電話に出られなくてすまなかった。メールも返せなくてごめんよ」
ルパン3世の声マネが聞けて安心したのは一瞬で、溜まっていた怒りが火柱のように立ち上がる。
「どうして、連絡くれなかったの?」
会いたかった、連絡してくれて嬉しいと言う気持ちを怒りが飲み込んでしまう。
彼は悲壮感を漂わせた口調で答える。
「悪かった。アリシアやグランパたちと、日系アメリカ人と地域のイスラム教徒、中東・南アジア出身者との集会を開く準備に忙しいんだ。歴史を繰り返してはならない、日系アメリカ人はあなた方に寄り添うと伝えるための集会だ」
彼の声が、恐縮するよりも自信に満ちていることが激しく癇に障るが、百歩譲って口にしない。
「事情は理解したわ。でも、恋人に電話の1本、メールの1通くらいできたでしょう? あなたが、私を軽く扱っていることがよーくわかった」
「忙しくて連絡できなかったことは謝る。だけど、君は安全な場所にいただろ? テロの実行犯と宗教的・人種的に近いイスラム教徒や中東・南アジア系の人たちは、暴言や暴力を恐れて、外を歩くことさえも怖がっている。アメリカのあちこちで、モスクが襲撃されたり、アンチイスラム・アンチアラブのデモに囲まれたりして、礼拝にいけない人々もいる。命の危険にさらされている人々もいるんだ。俺は、近所に住むイスラム教徒の買い物を代行したり、外出する際にエスコートしたり、今できることをしている」
連ねられる理由はもっともだが、私を案じ、大切に思う気持ちが全く伝わってこない。そのことが、ただ悲しく、寂しく、腹立たしい。だが、いまの彼にそれを訴えても、自分のことしか考えないヒステリー女だと思われるだけだろう。明日の誕生日を一緒に過ごし、いつものような口調で愛の言葉をささやかれ、心と身体の乾きが癒されれば、この溝が埋められるかもしれない。その希望だけが心に光を灯す。
彼が押し黙っている私を持て余すように問いかける。
「ハニー、怒りを抑えてくれないか? そうしないと、話ができない」
しばしの重苦しい沈黙の後に尋ねる。
「明日はホテル・デル・コロナドに行けるんでしょう?」
数秒の間の後、彼は感情を排した声できっぱりと告げる。
「本当に申し訳ない。明日はさっき話した集会があるんだ。ホテルはキャンセルしておいた。しばらくして落ち着いたら、改めて祝おう。聡明なハニーなら、わかってくれると信じている」
聞いた瞬間、頭の回路がショートしたように感情が炸裂する。
「どうして、私の意見も聞かないでキャンセルしたの? 私のことを何だと思ってるの!!」
「申し訳ない。けれど、日系アメリカ人として、いまイスラム教徒や中東・南アジア出身者がヘイトクライムの被害に遭っているのを見過ごすことはできない」
「そのことはわかるわ。でも、あなたは日系で、あなたに火の粉が降りかかっているわけではないでしょう。たった1日、せめて数時間でも、恋人のために空ける気持ちはないのかと聞いてるの?」
「その言い方は聞き捨てならないな。これは俺たち日系アメリカ人の将来にも関わる問題なんだよ! いま、イスラム教徒や中東系に向けられている憎悪は、国際情勢が変われば、日系に向く可能性がある。
第2次世界大戦時に強制収容された日系アメリカ人の血を引く者として、悲劇を繰り返してはならないと思う。この国で、アメリカ人として生きていくために、いまやらなくてはいけないことなんだ」
彼は一呼吸置いてから、諭すように言い継ぐ。
「ハニー、俺たちは、これからもずっと一緒だから、誕生日祝いはいつでもできる。俺の周囲のイスラム教徒や中東・南アジア出身者は、いま危険にさらされているんだ」
「あなたの活動は、恋人との数時間よりも大切なことなの?」
彼は暫しの沈黙の後、怖いほど冷静に続ける。
「そうだ。日本人の君には、わからないかもしれない。でも、俺やグランパは、行動するときなんだ。間違っていることは、正さなくてはならない」
「もういい!」
乱暴にコードレスフォンを置くと、ミナさんが心配そうな眼差しで見ていた。
★
大学のカフェテリアでプレゼンテーションの下準備を終えた後、ハンガリー系アメリカ人のセシリアが、声を落として話し出す。
「あたしの友達の友達の話なんだけどね、彼女に中東系のボーフレンドがいたの。そのボーイフレンドが彼女に、9月11日は絶対に飛行機に乗るなと言って、いなくなってしまった。彼女、怖くなってFBIに報告したんだって」
この類の話はいくつか聞いた。皆が疑心暗鬼になっていて、不審なことがあると過剰に反応してしまう。こうした心理から、イスラム教徒や中東出身者への恐怖が広がっていき、彼らへの冷淡な態度やヘイトクライムにつながるのだろうか。
韓国人のスンへがテーブルに身を乗り出し、小声で囁く。
「私の友人が従弟から聞いた話なの。従弟の叔父が、ブッシュ政権のテロ対策はやり過ぎだと屋外で話してたんだって。その翌日、警察が彼の家に来て、テロ対策に批判的なことを言ったのは本当かと尋問したらしいの」
セシリアが眉を顰める。
「この国は言論の自由が保障されていたはず。批判する権利だってあるのに。こんなの私が誇りに思うアメリカじゃない!」
アメリカ人のセシリアの反応に一筋の光を感じる。
メディアで衝撃的な映像が繰り返し流され、混乱と恐怖、悲しみと怒りが醸成されていく。それに煽られるように、愛国心と団結、テロに屈しないアメリカという世論が形成されていく。巷には星条旗が溢れ、愛国心がうねりのようにアメリカを席巻し、団結を乱す言動は追いやられる。外国人の私の目には、巨大な生き物が育っていくように不気味に映る。アメリカの強さの源泉を目の当たりにした一方で、言論の自由やマイノリティの権利が尊重される余地が残っていてほしいと願わずにはいられない。それが失われれば、アメリカは大きく魅力を欠いてしまう。
彼女たちと別れ、バスを待っていると、胸に抱える寂しさに引き戻されてしまう。今までの私なら、恋人にこんな扱いをされたら、私から別れを告げていたのは間違いない。しばらくは、共に過ごした日々を思い、寂しさに苦しむが、性的なぬくもりへの恋しさが収まるころになると、新たな出会いに期待が高まっていく。だが、ジョージの率直で情熱的な愛は、心と身体にあまりにも深く刻まれてしまっている。それが失われたら、今までと同じような過程をたどれる自信はなく、想像するだけで恐ろしい。
ジョージは忙しさの合間を縫って電話やメールをしてくれるが、話し合いは平行線だ。ジョージは感情的に英語で話し、私はそれに応えようと不自由な英語で思いを伝えようと試みる。日本語で話せばいいのかもしれないが、授業での英語力不足を実感させられている焦りが、英語で恋人と実のある会話をしたいという思いに駆り立てる。言葉を重ねても互いの心に響かず、わかり合いたいのにすれ違ってしまう。
夜遅くにかかってきた電話を取ると、低く緊張した声が飛び込んでくる。
「富士美? カリフォルニアで痛ましいヘイトクライムが起こった……」
「え、どこで?」
「ロサンゼルス郡サン・ガブリエルだ。コンビニエンスストアを経営する48歳のアラブ人、コプト系キリスト教徒が射殺された。地元警察はイスラム絡みのヘイトクライムを示唆する証拠はないと言っているけれど、彼の妻はイスラム教徒と間違えて殺されたと思っている。彼女は、レジの金は盗まれていないし、彼のポケットには札束が入っていたと言っている。彼は3人の父親だったのに……」
「何て痛ましい事件……。彼の無念と、残されたご家族の悲しみを思うとやりきれない……」
「まったくだ……」
ジョージは絞り出すように続ける。
「19日に、首都ワシントンD.Cの日系人慰霊公園で、アラブ系団体や日系団体、アジア太平洋系団体が集まって、テロの犠牲者を追悼し、ヘイトクライムに抗議する集会を開く。記者会見も開くから、世論にインパクトを与えられる。アリシアはイスラム系団体の副代表として参加する。そうそう、俺は来週、ロスで行われるキャンドル・ビジルに参加する」
「キャンドル・ビジル?」
「日没に、キャンドルを持って集まる集会。テロの犠牲者を追悼し、ヘイトクライムを許さず、自由を守るために、日系とイスラム教徒が絆を結ぶために開かれる」
「そう。私も部屋で祈るね……。ところで、次の週末、夕食だけでも一緒にできない?」
「すまない。週末はアリシアやグランパたちと地域のイスラム教徒を支援するイベントの打ち合わせがある。俺たち日系と彼らで、第2次世界大戦時に日系人が収容された跡地を訪れて、有事の市民的自由について考えるイベントを企画している。だから、しばらく忙しい」
「そう。身体に気を付けて」
「サンキュー。じゃあ、また連絡するぜ、ふーじみちゃん」
電話を切ると、淋しさとやりきれなさで胸が苦しくなる。本当は、私も活動に参加していいかと尋ねたかった。だが、拒絶されたときのショックが怖く、プライドが邪魔をして尋ねられなかった。参加できたとしても、日本人の私と彼らの溝を認識させられるだけかもしれない。9・11を契機に、大きく開いてしまった距離が悲しく、あふれてきた涙をこぼすまいときつく目を閉じる。