見出し画像

連載小説「クラリセージの調べ」3-3

 駅ビルのカフェは休日ランチを楽しむ若者があふれ、空気が華やいでいる。結翔くんが部活指導に出ていて、瑠璃子るりこの子供が学習塾で学んでいる時間を利用し、私たちは会うことができた。思えば、結婚してから、友人に会うのは初めてで、久々にしっかりメイクをしてきた。

「娘を迎えにいくから、一時間しかいられないの。早く食べよ」
 
 瑠璃子は時間を惜しみながらも、「いただきます」と両手を合わせてお辞儀をしてからフォークを取る。

 彼女の所作には、昔から育ちの良さがにじみ出ていた。中学時代、彼女を妬む女子が、それを真似て、陰で爆笑していた。そんな所作が健在であることに、なぜか救われた気分になる。

 瑠璃子はトマトソースを飛ばさずにパスタをフォークに巻き付けながら尋ねる。
「すーちゃん、こっちに帰ってたんだね。いつから?」

「今年の春」
 目の前の瑠璃子はノーメイクで、刻まれた年月を隠そうとしていない。だが、もともとの端正な目鼻立ちが、それを下品に見せない。

「こっちの人と結婚したの?」
 瑠璃子が私の左手薬指にさっと目を走らせる。

 頷いた私は、指輪をしていない瑠璃子の薬指を盗み見て、バジルソースが飛ばないように気を付けてパスタを口に運ぶ。プライドの高い瑠璃子が自分のことを話さないので、彼女が切り出さない限り、尋ねないと決める。

「最後に会ったのいつだっけ?」
 私は水を口に含んでから、当たり障りのない質問をする。

「私が結婚したとき、遊びに来てくれたよね?」

「あのとき以来か……」
 互いに社会人になって2年目の春、瑠璃子は外資系コンサルタント会社に勤める年上の男性と結婚した。六本木ヒルズレジデンスの高層階の部屋で、彼女は大きなお腹を抱え、まぶしいほどの笑みを浮かべていた。美しく化粧した笑顔がおぼろげによみがえり、時に飲まれるように霞んでいく。

「あのときお腹にいた子、葉瑠はるっていう女の子だけど、今年で8歳。私たちも年取るわけだ」

「え、ああ、そうなるよね。過ぎ去った時間を実感させられるね……」

「本当だよ。できちゃったから産んで……。葉瑠はどんどん大きくなるけど、私は生気を吸い取られて老いていく」
 瑠璃子の口調は自虐的だが、私に意味深な目線を投げかけている。マウンティングが好きなのは、中学時代から変わっていない。

「子供がいるって最高の幸せだよ。私なんか……、わかるでしょ?」
 瑠璃子と張り合う気はないので、彼女が喜びそうな反応をしてみせる。

 先週、計画書をつくるために来院した花房医師の診察室で、居心地悪そうに俯いていた結翔くんの背中が不意に思い出される。人工授精のために、朝のマスターベーションで精液を採取しなければならない彼の胸中を思うと、胃がきゅっと縮む。

「この年齢になると、みんな、何かしら抱えてるよね」
 瑠璃子は突っかかってこない私に張り合いをなくしたのか、無難な言葉を口にし、両手でナプキンを口に当ててソースを拭う。

「そうだね。こんなはずじゃなかったと思うことが、どんどん出てくるね」
 パスタを口に運ぶ瑠璃子を見ながら、先日会ったすずくんの顔が浮かぶ。私だって、距離を置いていた地元に戻って結婚し、不妊治療をすることなど想像していなかった。

「30代半ばって、案外悩むこと多い時期だよね」
 瑠璃子がコーヒーカップを両手で包み、そこに目を落とす。私は続きを促す視線を送る。

「10代や20代は、目指すものに向かってひたすら走るじゃない」

 同意するように頷くと、瑠璃子は淀みなく話し出す。
「でも、30代も半ばになると、私生活でも仕事でも、己の立ち位置が見えてこない? 思い通りの人生を手にできた人もいれば、かすりもしなかった人もいる。理想には届かなかったけど、そこそこの場所にたどり着けた人もいる。理想を手に入れたと思ったのに、どん底に突き落とされた私みたいなのも……」

「わかる気がする。私は、追い求めた理想は手に入らなかった。でも、まだやり直せる年齢だし、意識を変えて別の道を目指してるかな」
 両親の望む学歴も、職も得られなかった私は、妻として母として成功することで彼らを喜ばせようとあがいている。実家と距離を置いたつもりでも、結局彼らの理想に縛られている自分がくっきりとした輪郭を持って浮かび上がる。

「そう、私もそんな感じ」
 瑠璃子はコーヒーを飲み干してから、小さく息を吐く。
「恥ずかしい話だけど、私、それなりに恵まれてて、勝ち組だとうぬぼれていたんだよね」

「瑠璃子は、ずっとみんなの憧れだったよ」

 瑠璃子は唇の端だけで自嘲気味に笑う。
「自分で言うのもなんだけど、子供の頃から優等生で、いい大学入れて、第一志望の商社にも入れた。仕事はハードだったけど、同期より上手くこなせて、上司にも目を掛けてもらえた。再生可能エネルギー開発に取り組んで、海外出張もたくさんして、日本の将来のエネルギーを担っている意識で取り組んでた。スペックの高い男に猛アタックされて結婚して、公私ともに充実してたよ。夫が金持ちだから、ハウスキーパーつけてもらって、仕事と家庭を両立できたし。子供ができたら、信頼できるベビーシッターさんをつけてもらって、最短で仕事に復帰できた。義実家に葉瑠を預けないで済んだから、義両親との接触も最小限にできたし。独身時代とほぼ同じペースでエステやネイル、美容院にも行けた。休日には夫と二人でベビーカー押してカフェに行ったり、会員制のレストランで食事した。旅行では三ツ星以上か会員制に泊まるのが当然だったし、ハワイに別荘もあった。友人もハイスペックな人ばかりで、そこに違和感なく馴染んでいる自分が好きだった。田舎娘が実力でセレブの仲間入りして、自分はそれに値する人間だと天狗になってたんだよね。この生活がいつまでも続くと思ってたけど、2年でズィエンド」

「何があったか聞いていい?」

「夫に浮気されたの。互いに修復を試みたけど結局破綻して、かなりの慰謝料と養育費の約束して離婚。葉瑠を引き取って、一人で育てようと頑張ってたけど……。好きなだけシッターさん使って、仕事と育児を両立できたのは、夫の財力あってのことだと実感させられたよ。ペースを落とさずに仕事すると、シッター代で給料が飛んで、慰謝料を食いつぶすだけ。見かねた親が帰ってくるように言ってくれて、結局実家の世話になってる」

「それから看護師さんの資格を?」

「うん。一か月くらい、実家でゆるゆるしてたんだけど……。そのうち、父が小言を言いだした。安定した仕事を探せ、資格が必要なら取れと尻を叩かれて、看護学校行って、看護師になった」

「すごいね。ちゃんと新しい道を切り開いた。やっぱり、瑠璃子は格好いいよ」

「葉瑠を育てなくちゃならないから、わき目もふらずに走ってきたよ……。でも、今の私は一時的な姿で、本当はこんなもんじゃないっていう意識がどうしても抜けないんだよね。これが現実だってわかってるけど」

「どういうこと? 東京での仕事や生活に戻りたいの?」

 瑠璃子は伏し目がちに頷く。
「ナースにはシングルマザー多いし、やりやすいよ……。でも、生活苦しいとか、子育ての悩みとか、児童手当の話とかしてるとき、『私たちシングルマザー』とか仲間意識で話されると、私はあんたたちとは違う世界の人間なの、一緒にしないでって心の中で絶叫してる。嫌な女だよね」

「そんなことないよ。瑠璃子は実力でリッチな生活を掴みとったんだから。こんなはずじゃない、ここは自分の居場所じゃないっていう意識が消えないのは当然だよ」

「わかってくれる? 恥ずかしい話だけど、願わくは、東京で働くリッチなドクターと再婚して、前のようにシッターさん使い放題で、第一線で仕事ができればと思ってる。まあ、仕事と生活に追われて自分の手入れもろくにできないおばさんだし、コブ付きだし……。この地に根を張って、ここでキャリアアップすべきだとわかってるよ。これが私の現実だとわかってる。けど、腹を括りきれない」

 その意識が瑠璃子を苦しめていると気づくと、彼女の苦悩が重くのしかかってくる。それに耐えられず、話題を変える。
「瑠璃子、いまお付き合いしてる人いるの? それどころじゃないかな?」

 瑠璃子は遠くを見るように視線を泳がせたあと、私に覚悟したような視線を向ける。
「すーちゃん、絶対内緒にしてくれる? 中学のときから口固くて、一番信頼してたから話すね」

 そこまで信頼されていたことに戸惑いながら頷くと、彼女は周囲をさっと見回し、声を落とす。 
「実は、フサちゃんと……」

「フサちゃん……?」
 同級生や共通の知り合いにそんなニックネームの人がいたかと記憶をたどるが、思い当たらない。

 反応の鈍い私に、瑠璃子は口の中でごにょごにょ呟く。
花房はなふさの若先生……。大学病院の医局で『フサちゃん』と呼ばれてるから、ここでもそう呼んでってスタッフに言ったの。だから、『フサちゃん先生』」 

「ええっ!?」
 頭が真っ白になるとは、こういうことに違いない。思考が戻ってくると、自分の陰部を見せている相手が友人の恋人だという現実に、気恥ずかしいような複雑な感情が全身を走る。

「去年から結構真剣に付き合ってるんだ……。先月、数年以内にクリニックを継ぐから、一緒にやっていかないかとプロポーズされた。彼が戻ったら、胚培養士を雇って、最新の設備を入れて、体外受精と顕微授精もできるようにしたいんだって。私にも、医学部に編入して産婦人科医になりたいなら、サポートするって言ってくれた」
 瑠璃子は得意そうな視線を投げかけて私の反応を窺っている。

「すごいじゃない!」
 やはり、恵まれた人は別格なのだと、妬む気持ちも起こらないほど納得させられる。

 浮かない顔の瑠璃子に尋ねる。
「もう、返事はしたの?」

 瑠璃子は力なく首を左右に振る。その反応を見ても、彼女が東京への未練を断ち切れないのか、子供のことなど他の問題が足踏みさせているのかは読み取れない。

「私には、ありがたすぎる申し出だと十分にわかっているよ。葉瑠には、まだ会わせていないけど、父親になりたいって言ってくれてる。でも……」

 瑠璃子は空になったコーヒーカップを両手で包む。
「クリニックを継ぐ彼と一緒になったら、一生ここで生きていくんだよね。もう、東京には戻れない」

「そうだよね……」
 掛ける言葉が見当たらず、空気を変えるように尋ねる。
「ねえ、花房先生って、どんな人?」

「すごく尊敬できる人。大きな病院でも働いたから、いろんなドクター見たけど、あんな人初めてだよ。患者さんやスタッフだけではなくて、店員さんとか清掃員さんとかタクシーの運転手さんとか、どんな人にも分け隔てなく丁寧な口調で話しかけるし。もちろん医者としての知識や技術も素晴らしいよ。患者さんも、内診が痛くない、親身になって寄り添ってくれるってべた褒めだし。再婚できれば、いいことだらけだとわかってる。でも、私がこの気持ちのままでは、私もフサちゃんも不幸になりそう。あんないい人を不幸にするわけにいかない」

「返事は保留にしているの?」

「うん。葉瑠のこともあるから、少し考えさせてと言ってある。いつまでも、待たせるわけにはいかないけど……」

 瑠璃子は、はっとしてスマホで時間を確認する。
「ごめん、そろそろ行かないと。何か私ばかり話しちゃって、ごめんね。すーちゃんの話も聞きたかったのに」

「いいよ、いいよ。また、近いうちに会おう」

 瑠璃子は、「ごめんね」と拝むポーズを見せ、足早に店を出ていく。母の雰囲気を帯びた背中を目で追いながら、彼女が下さなくてはいけない決断の重さに思いをはせる。