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[短編小説] 幾星霜

※ 本作は「ピアノを拭く人」の番外編です。


 リモートワークを終えた彩子さいこは、在宅勤務日報を入力すると、大きく伸びをした。ちょうどそのとき、古風な振り子時計がボーンと鳴り、19時半を告げた。久し振りに、20時前に仕事を終えられた。夫のとおるが勤務するカフェ《フェルセン》に顔を出し、彼の生演奏を聴くのも悪くない。

 彩子は、手早く薄化粧をし、淡い藤色のワンピースに着替えた。ホワイトデニムのジャケットを羽織り、ワンピースと同色の不織布マスクをかけ、愛車のエンジンをかけた。

 国道に出て窓を下げると、排気ガスの匂いと生暖かい空気がなだれこんできた。空には星が瞬き始め、春の宵という言葉が似つかわしい。

 フェルセンの駐車場に着いたのは閉店の20時ぎりぎりだった。店の扉を開け、アルコール消毒液を手に馴染ませながら店内を見渡す。マスターの羽生はにゅうは、カウンターの後ろでコーヒーカップを洗うのに忙しい。透はテーブルに広げたノートパソコンをのぞき込みながら、同世代の男性と何やら真剣に話し合っている。

 ああ、香川かがわ先生か。

 ハーフで彫りの深い顔立ちの香川と、甘いマスクの透が揃うと、スポットライトで照らされたように華やかな空間ができあがる。

 音楽教諭の香川譲治じょうじは、透と同い年というだけではなく、プロのピアニストを諦めたこと、母子家庭で育ったことなど共通点に事欠かず、2人はすぐに親友になったという。

 香川は彩子の中学3年のときの担任で、初めてフェルセンで顔を合わせた際は意外な繋がりに驚かされた。開店時からの常連だという彼は、近くの中学に赴任したらしく、最近よく足を運んでくれる。

 

「このコロンビア大学は、アイビーリーグと呼ばれるアメリカのエリート大学の1つだ。そこの名誉教授だから、ネームバリューは十分だ」

「へえ、すごいんだな」

 香川の解説に、透が頻りに頷いている。

「こんばんは」

 彩子が声をかけると、2人はびくりと顔を上げた。

「ああ、彩子さん。今夜もおじゃましてるよ」

「先生、いつもありがとうございます。2人で何を真剣に見てるんですか?」

 彩子が画面をのぞき込もうとすると、透は遮るように提案した。

「譲治、連弾どうだ? 彩子も聴きたいだろ?」

「ああ、いいね。ルパンからいこうか」

 180センチを超える香川と190センチの透は、窮屈そうに横並びでピアノ椅子に収まった。2人は軽く目を合わせると、「ルパン三世のテーマ」を軽快に奏で始める。1回目はオリジナルに忠実に、2回目はジャズ風にアレンジされる。2人の息はぴったりで、回を重ねるごとに勢いを増していく。どんな変化球を投げても、相手が受けてくれる安心感が、互いを自由に羽ばたかせている。

「すごいねえ……」カウンターの後ろから出てきた羽生が感嘆した。

「ええ、2人の音楽は聴く人をわくわくさせるし、容姿も華やかで目を引きますよね。何よりも、2人が本当に楽しそうなのがいいですね」

「彩子ちゃん、あれを録画して、You Tubeにアップしてよ」

「前にも撮らせてくれないかとお願いしたんですけど、先生が嫌がるんです。学校関係者に見られたくないそうです」

「残念だな。You Tubeに上げたら、スカウトされそうなレベルなのに」

 羽生は心底残念そうに肩を落とした。彩子も全く同感だった。

 一息ついた2人は、歌に切り替えた。香川がピアノ伴奏にまわり、透がミュージカル「ラ・マンチャの男」の「見果てぬ夢」を高らかに歌い上げる。

 透が同じ曲を弾き歌うのを聴いたことがあるが、彼はそのときよりもずっとリラックスしている。声が伸びやかで、表情も明るい。

 アメリカ育ちで、現地のユウスコンクールで優勝したという香川のピアノは、力強さと正確さ、透明感を併せ持っている。透のブレスを鋭く捉え、彼を気持ちよく歌わせてくれる。彩子は、奔放な透についていけるのは香川だけなのではと思った。


「じゃあ、そろそろ失礼します。長居してしまってすみません。会計、お願いします」

 羽生が閉店作業を終えたのを察し、香川はピアノ椅子から立ち上がって、コートとカバンを手にした。

「いやいや、いいものを聴かせてもらいました。またお願いしますよ」

 羽生が相好を崩して、香川にお釣りを渡した。

 財布をバッグに収めた香川は、額にうっすらとにじんだ汗を拭いながら透に小声で言った。

「あのメール、転送してくれれば、和訳を送るよ」

「悪いな。今夜転送するよ」

 彩子は、透と一緒に、店の外まで香川を送った。頬を撫でる生暖かい空気は、春の匂いをたっぷり含んでいる。透のつけているアラミスも微かに鼻をくすぐる。


 羽生が帰ると、透は先ほどの連弾の余韻が残っているらしく、ピアノに直行した。天上の音楽と呼ばれるベートーベンの交響曲第9番 第3楽章。彩子も大好きなベートーベン ピアノ協奏曲 第5番 第2楽章。

 ゆったりとした美しい曲が続き、透の心が満たされていることが伝わってくる。やはり、香川と演奏をした後は気分がいいのだろう。

 透の奏でる曲が、彩子にプロポーズするときに奏でてくれたリスト「孤独のなかの神の祝福」に変わる。
 彩子は思わず笑顔になり、さっきまで2人が座っていたテーブルの椅子に掛けて聴くことにした。開いたままのノートパソコンにちらりと目を遣ると、英文のEメールが見えた。これを見ながら香川と何を話していたのだろうか。透に英文でメールを交わす相手などいただろうか? 他人のメールを覗くなど、最低だと知りつつも、好奇心に動かされて差出人にちらりと目を走らせた。

Ken AZUMA

 どこかで聞いた名前だ……。そうだ、東謙あずまけん。透の父親だ! 透が3歳のとき、離婚してカナダの大学に赴任してから、一度も会っていないと聞いた。数年前までアメリカの大学で教鞭をとっていたらしい。

 彼が父親への複雑な感情を処理しつつあることは歓迎すべきだ。だが、彩子は透との結婚を大反対する両親と絶縁状態で、リモートで挙げた結婚式にも参列してもらえなかった。自分は両親と縁を切る覚悟で透を選んだことを思うと、彼が父親と連絡を取っていることに複雑な感情が湧いてくる。

 そして、透の一番傍にいる自分が、父親への感情の変化を知らされなかった淋しさもある。英文メールを読む気力はもう残っていなかった。

 彩子の様子がおかしいのに気付いた透は演奏を止め、テーブルに歩み寄ってきた。彩子がノートパソコンの画面を見たのに気づくと、ばつが悪そうに押し黙った。

「お父さんとメール……?」
 さりげなく尋ねようとしたが、口調に棘を含んでしまった。     
 「どうして、連絡をとっていることを話してくれなかったの?」
 透はしばらく何も言わなかったが、絞り出すようにつぶやいた。
「ごめん……。彩子を家族と引き裂いた俺が言えることじゃなかった」 「私のことを考えてくれるなら、そういう大切なことは教えてほしかった。私の家族は今あなたしかいないのに、内緒にされるのは辛いよ!」
「ごめん。母が死んでから肉親がいなかった俺が、彩子と家族になれて、父に会ってみようという気になった……。父は北米育ちで日本語の読み書きが苦手だから、帰国子女の譲治に父のメールの和訳と、俺のメールの英訳をしてもらっている」

 そういうことだったのかと思うと、香川の頻繁な来店や先程の会話が腑に落ちた。だが、複雑な思いは胸にくすぶり続けた。


                 ★

 透が一緒に父に会いに行こうと切り出したのは、紫陽花が咲き乱れる6月だった。東が学会で講演するために来日しているので、金沢に来てくれれば会うと言われたらしい。

 彩子は日本海の波打ち際をひとりで歩いた。夕方は風が冷たくなることを見越し、白いワンピースの上にスプリングコートを着てきた。振り返ると、宿泊している高層ホテルがそびえている。その一室で、40数年ぶりに会う透と東は何を話しているのだろうか。

 彩子は砂浜に体育座りをした。太古から、寄せては返す運動を繰り返してきた波が、時折足元まで迫ってくる。女性関係が派手だったという透は、今のところ、波が砂浜に帰るように自分のもとに帰ってくれる。だが、それが永遠に続くとは言えない。ADHD気質で容姿に恵まれた透が、心変わりしないわけはない。それは、自分たちだけではなく、どこの夫婦にも起こりうることだが、きざした不安は水に垂れたインクのように、胸に広がっていく。彼に浮気されて飛び出しても、自分には帰る実家がないことが不安に輪をかける……。

「彩子」
 振り返ると、透がチノパンのポケットに手を突っ込んで立っていた。
「ずいぶん早かったね」彩子は立ち上がり、訝しげに言った。
 夕闇に飲まれ、透の表情は窺えなかった。
「話すべきことは話してきた」
 透は詮索を受け付けないと言わんばかりに、口を噤んでしまった。釈然としない彩子に、透がぼそりと告げた。
「彩子と話したいらしい……。部屋で待ってるそうだ」
 彩子の心臓のポンプが、全身に激しく血液を送り始める。
 彩子は透の首に腕を回してマスクの上から軽く口づけ、小走りで部屋に戻った。コートを脱ぎ、マスクを外して化粧を直すと、透にプレゼントされた香水 ブルガリのオムニアアメジストを手首につけた。服に合わせた白いハイヒールに履き替えるとぴんと背筋が伸びた。鏡を覗くと、ハイヒールが身長166センチの彩子の脚をより優美に見せていて、ぐっと気持ちを引き上げられた。

 ノックをすると、待ち構えていたようにドアが開き、グレイのドレスシャツに黒いスラックス姿の東に迎えられた。マスクはつけていなかった。間近で見る義父は、全身からオーラを放っているかのような存在感があった。目元や肌、白髪交じりの髪に77歳という年相応の劣化は見える。だが、すらりとした長身に、端正な目鼻立ち、シャープな顎のラインが印象的で、年齢に抗う色気が感じられる。細い眼鏡の奥の瞳には、新しいものを希求して止まないようなきらめきがある。

 東の鋭い視線が彩子の全身を走り、彩子の頬が反射的に赤らむ。東の目も二重瞼で切れ長だが、透のほうが、睫毛が長いせいか、甘く繊細な雰囲気があると思った。

 不器用な沈黙がスイートの部屋に流れた。

 東はゆったりとした足取りでバルコニーに出ると、「あそこに、透がいるよ」と指さした。東の声は透よりも低く、コントラバスが歌うように音楽的に響く。
 視線の先の透は、ポケットに手を突っ込んで、波打ち際を行ったり来たりしている。
「全く落ち着きがない男だね」
 東と考えていたことが同じだったのが嬉しく、彩子の緊張が解れていく。
「落ち着きがないのは私に似たせいだな。透は、私と貴女が二人きりだから、妬いてるんだよ」
 茶目っけのある笑みも透にそっくりだが、匂い立つ色気はそれ以上で、彩子の鼓動を速めた。
「貴女と二人で話させろと言ったら、手を出すなよと凄い目で睨まれたよ」
 彩子は密かに喜びをかみしめた。
 東が彩子に向き直り、ねばりつくような視線で全身を見まわした。
「無理もない。あなたは魅力的だ」
 東は光を注ぐような眼差しを彩子に向けた。

 東は部屋に入ってジャケットを羽織ると、ワインボトルを手に、飲むかと彩子に尋ねた。彩子が頷くと、彼は器用にボトルのコルクを外したが、グラスが見あたらないようだった。彩子がすぐに見つけ、2つ持っていった。東はありがとうと笑みを浮かべ、赤ワインを注いだフルートグラスを渡してくれた。受け取るとき、手が触れそうになり、どきりとした。

 ミニテーブルを挟み、2人はグラスを合わせた。フルートグラスを揺らし、馥郁ふくいくとした香りを楽しむ東は、映画のワンシーンを切り取ったように優雅だった。ワインは少し辛みが強かったが、香りと後味が良く、彩子の身体は貪欲に吸収した。吹き込んできた潮風が優しく頬を撫でていった。

「透が急にメールを送ってきたんですよ。妻の両親に結婚を反対されているから、父親として説得してほしいと懇願してきました。地位と金のある父親がいると知ったら、あなたの両親も納得してくれるかもしれないと」

 彩子は、グラスを置いて、両手で鼻と口元を覆った。透が、肩書や財力を重んじる自分の両親の気質を見抜き、絶縁していた父親と連絡をとってくれたのだ……。

「申し訳ございません。この度は大変ご迷惑をお掛けしました」彩子は深く頭を下げ、つんとしてきた鼻をすすった。

「いや、気にしないでください。これで私も、少しは父親らしいことをしてやれます。私は安心したんですよ。私の奔放な血をひいた息子が、あなたのようなしっかりした女性を愛し、私に連絡してまで、結婚を守ろうとしていることに。落ち着きのない私は、4度も結婚したのですが、どれもうまくいきませんでしたから」
 東は自嘲的な笑みを見せた。                   「ご両親の説得のことは、お任せください。うまくやれると思います」    東は恐縮する彩子に言い継いだ。
「貴女が傍にいてくれる限り、透はふらふらしないでしょう」
「どうでしょう。あの通り、魅力的な人ですから……」
 消しきれない不安を言葉にすると、それが現実になりそうで怖くなった。
東はそんな心情を読み取ったのか、優しく語りかける。
「私の血を引いたせいで、あいつは落ち着かない男になってしまったようで申し訳ないですね……」
「お義父様の血を引いているから、あんなに魅力的なのです」
 彩子は空になった東のグラスにワインを注いだ。ワインを一口飲んだ東は、トーンを下げた声で切り出した。
「彩子さん、お願いがあります」
「何でしょう?」
「コロナが収まったら、毎年1回、透と一緒に私のニューヨークの家に来てほしいんです。3人で食事をしましょう。私は100まで生きる予定だから、それまで毎年です」
「ええ、勿論です。嬉しいです!」
 東は彩子の瞳を捉え、「必ず透と2人でね」と真顔で念を押した。
 彩子は、そのとき、ようやく彼の真意がわかった。何て粋な心遣いだろうかとグラスを持つ手が震えた。
「どんな理由であれ、透が貴女と一緒に来なかったら、私は彼を許さない」
 彩子はグラスを持っていられなくなり、テーブルに置いた。
「お心遣いありがとうございます」声が詰まりそうになりながら、深々と頭を下げた。

 帰り際、東はマスクの上から彩子の両頬に接吻し、軽く抱擁した。戸惑いながら受け止めた彩子は、透と同じアラミスがほんのり香ったことに驚いた。                               「香水……。透さんと同じですね」                 「ああ、アラミスは透が音大に合格したと母親から手紙をもらったとき、私が贈ったんです。さっき、今でも同じ香水を使ってくれていると知って驚きました」
 東は驚きが収まらない彩子に、色気を漂わせた声で言い添えた。
「透が貴女と一緒に来なくなったら、私が貴女に結婚を申し込みますよ。どうやら、親子で好みが似ているらしい」
「喜んでお受けしますわ」
 2人は目を合わせ、それぞれが抱えていたものから解き放たれたように微笑みあった。
 

 透は波打ち際で佇んでいた。その姿を見た彩子は、堪えていた涙を抑えられなくなった。彩子が泣いているのに気づくと、透は何も言わず、胸に抱き寄せた。
「ばか、何で黙ってたの……!」
 透は彩子を抱きしめる腕に力を込めた。
「ご両親のことで彩子を悲しませているのがずっと辛かったんだ……。俺にできることは、それしか思いつかなかった」                    「ありがとう……」涙が溢れ、それ以上話せなかった。

 透は彩子にハンカチを渡し、「あいつに何もされなかったか?」と尋ねた。
「別に。両頬にキスされて、ハグされただけ」
 透が絶句したのを見て、彩子は心から笑った。
 透のアラミスと潮の匂いが混じり、彩子の鼻腔を駆け抜けていく。
「お義父さんが、これから毎年2人でニューヨークの家に来てほしいって。透が一緒に来なかったら、私をお嫁さんにしてくれるそうです」
「は? 何考えてるんだ。頭おかしいんじゃないか?」
「嫌なら、一緒に行ってね」
 彩子は今までにないほど解放された気分で、透の胸に横顔をつけた。寄せては返す波の音と透の鼓動が紡ぐ音楽が優しい。砂浜は、波を受け止めては送りだしている。

                ★

 彩子は、東が日本に滞在する期間が限られていることを両親に強調し、訪問を週末に設定した。その日は、東の通訳と称して、香川も同席してくれることになった。母は彩子が中3のとき、三者面談で親身になって進路相談に乗ってくれた香川を高く評価している。透の親友に彼がいると知れば安心すると思い、無理を言ってお願いした。

 明け方からの雨が上がった午後、4人は彩子の実家の前に立っていた。東は、すべて私に任せてほしいと3人に念を押した。彩子は腑に落ちないまま呼び鈴を押した。玄関の近くに咲いた紫色の紫陽花が、雨に濡れて美しかった。

 華やかな容姿の東、透と香川がスーツ姿で客間に座ると、彩子の両親はそれだけで恐縮していた。彩子と透が何度も訪れたときとは明らかに様子が違った。

 座布団に正座した東は、流暢な日本語で切り出した。

「ご挨拶が遅くなってしまい申し訳ございません。透の父の東と申します。数年前まで、アメリカのニューヨークにあるコロンビア大学で教えていました。透とお嬢さんの結婚を認めていただきたいと思い、こんな時期ですが、アメリカからお願いに伺いました」

「東先生は、名門コロンビア大の名誉教授です。音楽による街おこしの研究者でご著書が多数あり、日本語訳も何冊か出ているんですよ。私も拝読しました」香川が言い添えた。

「透さんから、アメリカのお父さんとは何十年も連絡をとっていないと伺っていました。以前は、父親代わりだという羽生さんがいらっしゃいましたが」彩子の父が、腕組みをし、不信感をにじませる声で言った。

「はい。おっしゃる通り、私は透が3歳の頃に彼の母親と別れて以来、父親らしいことはしてやれていません。透の人生の節目に元妻から手紙をもらったとき、贈り物をするくらいでした。老い先短くなって、不誠実な父親であったことを悔やみ、透の結婚祝いにせめてもの贈り物をしたいと考えました。私、仕事で日米を行き来することが多いので、東京の麻布十番にマンションを所有しています。年のせいか、日米の行き来が辛くなってきたので、これを透に生前贈与しようと思います。先日査定してもらいましたが、売却すれば8000万くらいの価値はあるでしょう」

「8000万!?」彩子の母が頓狂な声を上げ、慌ててマスクを掛けた口元を抑えた。

 東以外の全員が目を点にし、顔を見合わせた。

「突然、わけのわからないことを言い出さないでくれませんか」透が膝を乗り出し、困惑した口調で言い放った。

 東が黙っていろと言わんばかりに透を手で制した。

「面倒な手続きは、甥が日本で弁護士をしているので彼に任せます。その後は、透が売却するのも、賃貸に出すのも自由です。これが、私にできるせめてもの結婚祝いです」

「相続税とか大変よね……」彩子の母が父の肘をつつき、小声で言った。

 東は全員が呆気に取られているなか、涼しい顔をしてマスクを外し、美味しそうにお茶を飲み干してから続けた。

「透の若いころの女性関係が良くなかったそうで、ご両親が反対するのはもっともです。ですが、彩子さんと出会って、彼は変わったのでしょう。透は自分と結婚したせいで彩子さんがご両親と喧嘩してしまったことを気にし、憎んでいた私に、ご両親と話をしてほしいと頭を下げたのです。そこまでするほど、彩子さんの幸せを考えています」

 彩子の母は顔を背けて涙ぐんだ。

「出来の悪い息子ですが、私はそんなふうに人を愛せるようになったことを誇らしく思いました。お父さん、お母さん、どうか、どうか……、お嬢さんと息子の結婚を認めてください」

 東は畳に手をついて深く頭を下げた。

「透くんは、お父さまとお母さまに、水商売のような仕事と言われたのを気にして、フェルセンのメニューからアルコールを外しました。彩子さんが店を手伝うのも禁止しています。東先生がおっしゃったように、透くんは彩子さんの幸せを一番に考える男です。そして、私はフェルセンに長年通っていますが、クラシック音楽の生演奏が聴ける上品な喫茶店で、決していかがわしい店ではありません。客層も普通で、品のない方に会ったことは一度もありません。むしろ、クラシックを好む上品な方が多い印象を受けます」香川が、静かだが熱のこもった口調で言い添えてくれた。

「お願いします」彩子と透も深く頭を下げ、香川もそれに続いた。息が詰まるような沈黙が続いた。

「頭を上げてください」

 彩子の両親は、観念したように頷き合った。母が憮然としながらも、父を促した。

「透さんとお父さんの気持ちはわかりました。透さん、娘の将来を案じる気持ちが先走ってしまい、今まで失礼な言動があったことをお詫びします。彩子を宜しくお願いします」

 彩子と透は思わず顔を見合わせ、見つめ合った。透の目は真っ赤だった。

「お父さん、お母さん、ありがとう……」彩子は声が詰まり、それ以上は言葉が出なかった。父の声が東に負けないくらいよく通り、滔々としていたことを密かに誇らしく思った。

「4対2では敵わないわね……」彩子の母は、目を潤ませながらも、皮肉を忘れなかった。

「ありがとうございます」東も深く頭を下げた。

「よかったな!」香川が透の肩を抱いた。

「透がお嬢さんを傷つけないように、私が見張っていますからご安心ください。2人には、コロナが収まったら、毎年一緒に私のニューヨークの家を訪ねるようお願いしました」東の言葉に、彩子の両親は恐縮して頭を下げた。

「落ち着いたら、ハワイにある私の別荘で結婚式を挙げませんか? 近くに小さな教会があるので、私から頼んでみましょう。お父さんとお母さんも、必ず参列してくださいね」

 透と彩子は目を輝かせ、両親はもはやついていけないと顔を見合わせた。

「東先生、別荘をお持ちなんですか!?」香川が好奇心を丸出しにして尋ねた。

「ええ。ニューヨークの冬は寒いので、ハワイに逃げて執筆するために購入しました」

 雨上がりの陽がすっと射しこみ、2つの家族を祝福するように部屋を照らした。

                ★

 3人はフェルセンのカウンター席に並んで座り、透の淹れたブレンドコーヒーを味わった。

 香川が席を立ち、グランドピアノでアンドレ・ギャニオンの「めぐり逢い」を奏で始めた。ピアノは、父子が離れていた時間を埋めるように静かに流れていく。

「透、こんな美味しいコーヒーを淹れられるんだな……」東が眼鏡の奥の目を細め、カウンターの後ろに立つ透を眩しそうに見上げた。

「羽生さんに鍛えられました。美味しいコーヒーを淹れられなければ、店は任せられないと言われています」

「羽生さん、透から聞きました。親代わりになっていただき、何と御礼を申し上げたらいいか……。本当にいろいろありがとうございました。ご迷惑をお掛けしましたね」

 立ち上がり、深々と頭を下げる東を羽生が宥めた。

「いえいえ、私には息子がおらず、一人娘はシンガポールで結婚してめったに帰国しません。息子ができたようで嬉しいですよ」

「今後も、どうぞ宜しくお願いします」

「ええ、ゆくゆくは彼に店を譲るつもりです」

「しっかり、鍛えてやってからにしてくださいね」

「お父さん、その話は後にして、何で麻布十番のマンションとか、意味のわからない話をはじめたんですか? 本気なんですか?」透がカウンターに掛けて詰め寄った。

「ああ。バブルがはじけたころに買ったから、安く買えたんだ。今売れば、かなりの額になるだろう。この店のローンを返済して羽生さんの負担を減らし、彩子さんに苦労をかけない生活ができるよ」

 そう言われると、透は拒めなかった。羽生は何か言いたそうだったが、透の意志を優先するために口を挟まなかった。

「ありがとうございます」

 彩子も透と共に深く頭を下げた。今日一日で、あまりにも多くのことが動き出し、頭が痺れそうだった。

「ようやく、父親らしいことをしてやれたな」

 東と透は照れくさそうに目を合わせた。

「なんだか、夢を見ているようだな。癇癪を起してばかりだった3歳の透が、いい歳のおじさんになって現れた」

「俺だって同じですよ。写真でしか見たことがないお父さんとこうして話していて、マンションを譲るとか、ハワイで結婚式とか言われて。頭の回路がショートしそうですよ」

「透が彩子ちゃんと出会って、結婚しなければ、こういう時間は訪れなかったかもしれませんね」羽生が感慨深げに語り掛けた。

 透は頷いた。「彩子と出会わなければ、俺は今ごろ強迫性障害に苦しんで、自殺していたと思います。彩子が病院を探してきて、ずっと闘病を支えてくれたんです。彩子に出会ったのが母の一周忌で、母がめぐり合わせてくれた気もします……」

 彩子は目頭が熱くなり、泣くまいと目を伏せた。

「そうだったのか。透、彩子さんを大切にするんだぞ。絶対に悲しませるなよ」

「はい」

「長い間、何もできなくて済まなかったな。お母さんにも苦労をかけた。嫌でなければ、お母さんの墓参りをさせてくれないか?」

「ええ。明日にでも、ご案内します」

「ありがとう。おまえも、いろいろ苦労したようだな」

「ええ、まあ。お父さんも、長い人生で辛いこともあったでしょう」

「日本語に、苦労した長い年月を指す言葉があったな。星という字が入っている言葉だった……。何だったかな」東が思い出そうと眉間を抑えて目を閉じた。

幾星霜いくせいそうでしょうか?」彩子は遠慮がちに切り出した。

「ああ、それです。美しい言葉ですね」

「その幾星霜を経たから、こうして穏やかにお父さんと話せる気がします……」

「そうかもしれないな」

「今日は晴れたので、星がきれいに見えそうですね」演奏を止めた香川が、カウンターに戻って言った。

「そうだ、お義父さんを星がきれいに見えるあの山にご案内したら?」彩子思い出したように提案した。

「山?」

「はい。星がきれいに見えて、怖いほどの静寂が広がっている場所です。透さんは、お祖父さん、お祖母さんが亡くなった時も、お母さんが亡くなった時も、そこに行って一人で星を見ていたそうです……」

「夕食を済ませたら、行ってみたらいかがですか? 今夜は親子で語り明かすのもいいじゃないですか」

 羽生が切り出し、東にメニューを渡した。「まずは、透と譲治さんの演奏を聴きながら、夕食を召し上がってください」

「よし、透、何を歌う?」香川がピアノ椅子に座り、スタンバイした。

 彩子が出窓を開くと、瞬き始めた星が微笑んでいるように見えた。今夜は長い夜になりそうだと思った。


(完)