見出し画像

詩と小説のコラボ with ましろさん Ⅱ   

  私が長編小説「ピアノを拭く人」連載中に、ましろさんが主人公の彩子さいことおるの字を使って、創作してくださった作品にインスピレーションを受けて創作しました。
 ましろさんの作品は、どれも言葉の1つ1つが選び抜かれていて、無駄な言葉は1つも見つかりません。そして、作品の中で、1つ1つの言葉がきらきらと光を放ち、作品全体の質を高めています。
 
  私も、選んだ言葉それぞれが、小説全体のなかで意味を持つよう心掛けましたが、どこまで成功したかは甚だ心許ないです……(^^;)。

 私にとって、今回のコラボは、クリエイターさんの作品に、新たに自分の小説を添える初めての経験で、ましろさんの世界観を壊さないかとびくびくしながらの執筆でした。それでも、尊敬するましろさんと作品を作っているという幸せを常に感じ、少しでもよいものを書きたいと思えて、自分を成長させる機会になりました。ぜひ皆様に読んでいただければと思います。

 ましろさん、このたびは、作品に短編を添えるコラボをご快諾いただき、本当にありがとうございました。

 写真は、安室和代さんの作品を使用させていただきました。この場を借りて、御礼申し上げます。


短編小説 「ゆがんだときを過ぎても」

 カウンターの裏でコーヒーを淹れていた透は、プルプル鳴りだした店の電話に、びくりと眉を上げる。
 カウンター席に座っている彩子が、私に電話を取らないよう目配せする。透が私が取ることを期待する視線を送ってきたので、私は早く取れと目で促す。
 透は数秒ほど電話を凝視していたが、意を決してコードレスの受話器を取り、耳にあてる。彩子がほっとした表情を見せる。
「ありがとうございます。フェルセンでございます」
 せっかちな透は、相手が話し終わる前に話し出し、声がかぶらないよう細心の注意を払っている。彩子は固唾を呑んで見守っている。
「チラシをご覧いただいたのですね。ありがとうございます。そちらをお持ちいただければ、生演奏を1曲サービスいたします」
 透は頻りに頷きながら相手の話を聞いている。
「ご予約ですね。ご希望通り本日18時からお席をご用意できます。Happy birthday to youの生演奏も承りました。では、お名前と人数、お電話番号をいただいてもよろしいでしょうか」
 透は不器用にメモを引き寄せ、書き取りはじめる。緊張で額に汗がにじみだす。
「ありがとうございます。復唱させていただきます。生田いくたさまで2名様。電話番号は〇〇〇-××××-△△△△でお間違いないでしょうか?」
 相手が頷いたのを確認し、透が話し始める。
「それでは、本日18時にお待ちしております。失礼いたします」

 受話器を置いた透は、肩を大きく上下させ、マスクの中で荒い息を吐いている。
「すごい、苦手な電話から逃げなかったね。最大の難関突破おめでとう!」彩子が頬を紅潮させて賞賛した。
 だが、透は彩子に、不安そうに尋ねる。「お電話ありがとうございましたと言うのを忘れて、切っちゃったことに気づいた。会話の途中で少し声がかぶってしまったかもしれない。失礼なことをしてしまったから、掛け直して、先ほどは、お話をかぶせてしまい申し訳ございませんでした、お電話ありがとうございましたと伝えちゃだめかな? 時間を確認するついでとか言って……」
「わかってるよね。気になることがあっても、そのままにするのがエクスポージャー! 18時に今のお客様が来たときも、絶対謝らないでね。羽生さん、見張っててくださいね」
 私は任しとけと胸を叩く。
「お客様が来たとき謝らなかったらエクスポージャー成功! ご褒美に、透さんの好物の鳥のから揚げを作るからね」
「わかってるけど……。気になって、仕事ができなくなりそうなんだよ」
「もう考え続けるのは終わり! そのぞわぞわ感をしっかりと感じながら、次の行動に移って。時間とともに不安が小さくなっていくことは知ってるでしょう?」
「時間が経つと気にならなくなる不安と、そうでない不安があるんだよ! 気になることの種類は1つ1つ違うんだよ」
「とにかく、早くコーヒー淹れてよ!」
「わかったよ!」
 今の透は電話の相手に失礼なことをしたという思いで、胸がぞわぞわしている。電話を掛け直し、気になることから解放されたい衝動と戦っているのだ。それでも、透はコーヒーをカップに注ぎ始める。
 
―いいコンビだな。
 私は漫才のようなやりとりに肩を揺らして笑った。彩子のおかげで、透は些細なことが気になって居ても立ってもいられなくなる強迫性障害から回復しつつある。以前の透なら、電話で相手と話すタイミングが重なったり、取り次いでくれた方に御礼を言えなかったりしたら、対象の人につながるまで何度もかけ直したり、要件をでっちあげてかけ直したり、ファックスを送って感謝や謝罪を伝えないと気が済まなかった。よくぞ、ここまで回復してくれたと思う。
 彩子の言動は、病気の恋人を優しく支えるというより、冷淡に突き放しているように見えるだろう。だが、彩子のさばさばした、はっきりものを言う性格は、この病気の治療に都合がいいのだ。

          
                ★
 私、羽生一正かずまさは、高校教師を定年退職後に「フェルセン」という喫茶店を開いた。ピアノと歌の生演奏が売りで、店の前方にはグランドピアノが鎮座している。メニューは和洋折衷。店は主に私と、息子同然に可愛がっている演奏担当の透でまわしている。

 店を開いた最大の理由は、人と人とが出会う場を作りたかったからだ。
 店に立っていると、まれに、私の胸にしまっておくのはもったいないめぐり逢いを目の当たりにすることもある。そんなとき、店を開いてよかったなと心から思える。これからも、この店がそんな出会いの場になることを願いながら、その話をすることにしよう。

 透と彩子は、この店がなければ、恋人同士になる可能性がなかったのは勿論、出会うことさえなかっただろう。

 透は45歳。切れ長の目に秀でた鼻梁の甘いマスクで、190センチの長身痩躯。彼は容姿だけではなく、音楽の才能にも恵まれた。だが、プロとしてクラシック音楽の第一線で活躍するには足りなかった。他の仕事に就いたが、生来の不器用でどれも続かず、職を転々とせざるをえなかった。彼が音楽を続けられる場所を作りたいと思ったのも、私が店を開いた理由だ。

 そんな彼は強迫性障害を抱えている。よく耳にする強迫性障害の症状に、いくら洗ってもきれいになった気がせず際限なく洗ってしまう洗浄強迫や、何度確認しても安心できず確認を繰り返してしまう確認強迫などがあるが、症状は多種多様らしい。

 透の症状は、相手に対して、失礼な言動がなかったかが気になる加害恐怖と、相手に感謝や謝罪を十分に伝えられなかったことが気になる不完全恐怖が主だ。
 彼が人と接するときは、後で気になることが出てこないように、感謝と謝罪を儀式のように過剰に伝えてしまう。後で、あのとき伝え足りなかったのではないか、あの言動は失礼だったのではという強迫観念が、意志に反してすっと頭に侵入してくるらしい。すると、強烈な不安に襲われる。全身の血の気がすうっと引き、鼓動が速まり、胸がぞわぞわするという。正常な判断力を失ってしまい、楽になるために、感謝や謝罪をタイミングを探して伝える、次に会った時に伝える、手紙を書いて伝えるなどの強迫行為に駆り立てられる。だが、何度伝えても十分に伝えたという実感が得られず、何度も繰り返してしまう。ひとたび不安が解消されても、また新しい強迫観念が頭に侵入してきて、同じ行動に走ってしまう。そのサイクルが繰り返されるのだから、心身が休まる暇などない。まったく、厄介な病だ。

 当然ながら、透が店で演奏するときにも症状が出る。例えば、こんなことがあった。
 透は常連の紳士の依頼で、還暦を迎えた彼の奥さんのために、燕尾服姿でHappy birthday to youを弾き歌いしていた。演奏が終わった後、店内には誕生日を迎えた奥さんのために温かい拍手が広がった。奥さんは恥ずかしそうに微笑み、立ち上がって、四方に向けてお辞儀をした。
 ピアノ椅子から立ち上がった透は、夫婦のテーブルに向かって大股で歩き出した。私は渾身の力で透を止めようと試みたが、すごい力で振り払われてしまった。透は早口で奥さんにまくし立て始めた。
「申し訳ございません、さきほど、少し指が滑ってしまった箇所があったので、もう一度弾かせていただけませんか」
 頬を紅潮させて余韻に浸っていた奥さんは困惑し、「いいのよ。とても素敵だったから、気にしないで」と微笑んだ。店内には、どう反応したらいいかわからない空気が流れた。
 私は「関根さん、おめでとうございます!!」と盛大に拍手をし、透の腕を掴んで強引にピアノに戻した。店内には、再び拍手が広がっていった。透はピアノ椅子に座り、目を吊り上げ、肩を上下しながら荒い息を吐いていた。私は透を落ち着かせようと背中をさすってやった。
「関根さんの還暦の誕生日を、一生の記念になる誕生日を台無しにしてしまった。もっと丁寧に謝らないと」透は居ても立っても居られない様子で、小声で私に訴えた。
「これ以上、謝ったら、もっとひどい思い出にしてしまうぞ。悪いと思うなら、黙ってろ。演奏を続けるんだ」
 透はちらちらと夫妻を観察しながら、心ここにあらずでピアノを弾き始めた。

 夫妻が食事を終え、レジに向かったとき、透は速足で2人に近づき、謝罪の集中砲火を浴びせ始めた。
「関根さん、先程は本当に申し訳ございませんでした。私のせいで、大切な誕生日の思い出に傷をつけてしまい誠に、誠に申し訳ございませんでした」
「いいえぇ、一生懸命歌ってくれてとても嬉しかったわ。ねえ、あなた」
「ああ、どこが悪かったかなんて、全く気付かなかったよ。気にしないで」
 夫妻は、冷や汗を垂らして謝罪を続ける透を持て余し、助けを求めるように私を見た。
「すみません、彼は最近ちょっと神経質なんです。ありがとうございました。また来てくださいね」 
  私は努めて明るい声で透の謝罪を遮り、2人を解放した。
「しつこくお詫びをしてしまい、申し訳ございませんでした。お忙しいときに呼び止めてしまい申し訳ございませんでした」透は店を出て、帰っていく2人に謝罪を続けた。

 店内に戻った透は、血の気の引いた顔で私に訴え始めた。
「さっき、関根さんに、聴いていただき、ありがとうございましたと言うのを忘れてしまったことに気づいた。何て失礼なことをしてしまったんだろう」
 透のなかでは、感謝と謝罪はセットになっているらしく、それが不完全だと気になってたまらないらしい。

 気になることを残したときは、閉店後に私との問答が始まる。「普通、感謝は伝えるよね」、「言い忘れたことを謝罪するべきかな」、「何で俺は感謝を伝えるのを忘れたのだろう、何て失礼な奴なんだ。何であのとき気づかなかったんだろう」、「電話を掛けて感謝と謝罪を伝えちゃいけないかな」などと次々と私に質問を投げかける。私は透を安心させるために、問題ないと宥め続ける。一度は落ち着いても、夜中に電話を掛けてきて、再び問答が始まることもある。起こされた私は、「そんな些細なことを延々と伝えられるほうが気味悪い」、「これ以上言ったら、還暦の誕生日がもっとひどい記憶として記憶に刻まれるぞ」、「おまえはもう十分丁寧に対応した」などと落ち着かせる破目になる。
 私との問答でも気になることが解消されないと、次にそのお客様が来た時、「先日は申し訳ございませんでした」などと機関銃のように伝え、ようやく気になることから解放されるらしい。
 透自身も症状に振り回されて疲労困憊し、気になることが出てこないよう、できるだけ人との接触を減らすようになった。

                ★
 透と彩子が出会ったのは、透の症状がひどかった時期だ。コロナ禍の秋雨の夜、初めて来店した彩子は、スマホを忘れて帰ってしまった。閉店後に探しに来た彼女に対応したのが透だ。彼は冷たい秋雨にぬれた彼女に、折り畳み傘とタオルを貸した。  

 透は翌日、「彼女が話し終わらないうちに話し出してしまった」、「ピアノで1曲聴かせてほしいと言われたのに弾けなかったが、十分謝れなかった」などと血相を変えて私にまくしたてた。私は傘を貸したのなら返しにくるだろうと宥めた。

 幸い、彩子は傘とタオルを返しにきてくれた。私は彩子をちらりと見て、あの夜、見るからにスマートそうな青年と来ていたことを思い出した。透は待ってましたと言わんばかりに、彩子に感謝と謝罪の集中豪雨を浴びせていた。そのとき、彩子は話の流れで、スマホを忘れた日に店で恋人に振られたことを口にしたようだ。透はそんな彼女に、その気持ちを込めて歌ってみないかともちかけた。大学時代にミュージカルサークルに入っていた彼女は、その誘いに乗り、透の伴奏で歌った。バックルームで片付けをしていた私は、出ていけない雰囲気になってしまい、そのまま聞き耳を立てていた。ブレスを丁寧に観察し、気持ちよく歌わせる透の伴奏は、彼女の胸に燻っていた悲しみを解放する後押しをしたようだ。歌い終えた彼女は透の前で号泣した。だが、それで随分気持ちが楽になったらしい。彩子は、人前で涙を見せるような女性ではなく、自分でもそんな状態になったのに驚いていた。以来、彼女は透が気になるようになったらしく、よく店に顔を出すようになった。

 私はすぐに彩子を気に入った。彼女は32歳。頭の回転が速く、コミュニケーション力に長けたキャリアウーマン。話し方は、さばさばしているが、いつも相手の話に真摯に耳を傾け、決していいかげんな受け答えをしない。時折はっきりと物を言うが、それは相手の心を開かせる率直さで、嫌な印象を与えない。

 彩子は透の言動を気味悪がらず、真摯に向き合ってくれた。人と接することに怯え、他人を遠ざけていた透だが、少しづつ彩子を頼りにするようになった。彩子の存在は、疲労困憊していた私にも救世主になった。つい彼女に愚痴をこぼし、透の相手を頼んだり、強迫性障害の専門医の情報を教えてもらったりした。

 もっとも、この頃の透に、彩子が恋愛対象として映っていたとは言い難い。透は次々と襲いかかる強迫観念を一人で抱えることに耐えられず、藁にも縋る思いで彩子を頼った。言い換えれば、強迫行為をして楽になるために協力してくれる相手として、私の他に頼れる存在ができたのだ。
 そんな透との関係にもどかしさを感じていた彩子は、私に愚痴をこぼした。「透さんと話していても、機械のようにお礼とお詫びが返ってきて、儀式に参加させられているようで寂しいです。私は彼ともっと実のあるコミュニケーションをしたいんです」

                ★
 2人の関係が変化の萌しを見せたのは、透が最大級の強迫観念に襲われた日だ。

 その日、昼過ぎのシフトで出勤してきた透の姿に、私は思わず後ずさった。死神という以外、形容する言葉が見つからなかった。血走った目は焦点を結ばず、マスクをしていても顔色がぞっとするほど悪いのがわかった。乱れた服やぼさぼさの髪を直す気力もなさそうだった。死の匂いさえ漂っていて背筋が冷えた。こんなのを店に出すわけにはいかないと思った。
 透は店内にランチを食べているお客様が3人ほどいるのに、地の果てから響くような声で私に訴え始めた。
「20年程前に、すごくお世話になった人から渡された2000円を勘違いして別の目的に使ってしまったことが、今朝頭にすっと侵入してきた。俺は大馬鹿だ。なんで今まで気づかなかったんだ。今すぐ死にたい……!! こんな辛い記憶を抱えて生きているのは、1日でも耐えられない。明日が来ることさえ恐ろしいんだよ」
「後で聞くから、2階で休んでろ」私はでかい図体で震えている透をバックルームに押し込んだ。
「仕事をしないと……」
「そんな状態で店に出るのはお客様に迷惑だ。すぐに出てけ!」
 私は透を一喝し、店から追い出した。

 いつ首を吊ってもおかしくない透を目の当たりにし、もう限界だと思った。私も連日の彼のケアで精魂尽きていた。カウンターの裏で、このままでは2人とも死んでしまうと呻いた。
 コロナ禍でお客様が減っているのに、透に今の状態が続けば、さらに減ってしまう。そもそも、あんな精神不安定なのを店に出し続けるのはお客様に失礼だ。

 透は近所の精神科を受診したことがある。だが、次々に薬を増やされ、廃人のようにぼーっとなっただけで、良くなったように見えなかった。私が診察に同席して、良くならないと医師に訴えても、薬を増やすしかできないと言われた。結局透は、良くなったふりをして医師に感謝と謝罪の集中砲火を浴びせ、受診をやめた。それ以来、受診に背を向けている。彩子が隣県の病院に、強迫性障害の専門医がいると教えてくれたが、私はいよいよ限界になった透が自分から受診すると言うのを待つしかないと判断した。今の透には、受診は救済ではなく、失礼なことを言わないか、お礼を十分に伝えられるかが気になり、命がけの冒険なのだ。だが、そろそろ説得しなくてはと思った。

 その日の晩、勤め帰りの彩子が店に寄ってくれた。彩子は、透はいないのかと尋ねたが、若い女性にあの状態の透の相手をさせるのは酷だと思った。手に負えない状態だと言ったが、彩子は「大丈夫です」と迷わず2階に上がった。私は彼女を案じつつも、止める気力は絞り出せなかった。

 一時間ほど経った頃だろうか。2人はそろって下りてきた。
 彩子は、紅潮した頬を隠すように目を伏せ、「今日は失礼します」とそそくさと帰ってしまった。透は辛うじて身なりを整えていて、「彼女が紹介してくれた専門医のところに行く」とぼそりと言った。2人から濃厚な空気の残滓が感じられ、私は何かあったと察した。
 このときの透の精神状態で、恋をする余裕があったとは思えない。だが、透の極限の精神状態が2人の距離を縮めたのは確かだろう。何にせよ、私は透が医者にいく決意をしてくれたことに心底安堵した。


 彩子の探してくれた隣県の病院で、透は診察とカウンセリングを受け、1週間入院して治療を受けることが決まった。
 
 私は心理士とのカウンセリングに立ち合った彩子と、閉店後のフェルセンのカウンター席で、透への対応を話し合った。
「強迫性障害治療の専門家によれば、患者は、脳のオートマチック・トランスミッションが故障していて、次の行動へのシフトが難しいそうです。透さんも、自分の行動に意味がないとわかっているのに、お礼やお詫びを繰り返してしまうのでしょう」
「なるほど。ギアの効かない車ってわけか」私は彩子に温かいコーヒーを出しながら頷いた。
「病気だから仕方ないとわかってはいるのだけど、しつこいから苛々して、つい怒鳴ってしまうんだ。透が大丈夫かと何度も聞いてくるときは、どうしたらいいのかな?」
 彩子はマスクを外し、コーヒーを一口飲んだ。彼女は女性ではめずらしくコーヒーをブラックで飲む。私はいかにも彼女らしいと好ましく思っている。
「安心してほしいから、つい大丈夫だと何度も言ってしまいますよね……。でも、それは良くないんです。そんなときは、さあねとか、さっき話したよねと答えるのがいいそうです。透さんは、大丈夫かと何度も尋ねて安心すると、次回もそうして安心しようと思ってしまうので、羽生さんも私も永遠にあの問答に巻き込まれ続けると思います」
 私は、彩子とソーシャルディスタンスを確保して、カウンター席に掛けた。
「なるほど。そういえば、透が何度も電話して、あなたにも迷惑かけたね」
「いえ。私も知識がなかったので、大丈夫だと言って安心させたり、手紙を書くための便箋と封筒を代わりに買ってきたりして、強迫行為を手伝ってしまったと反省しています。これからは、冷淡な対応をすると思います」
「うん。私も心を鬼にしてそうしよう」
「私も頑張ります。透さんが強迫行為をしなかったときは、ほめるといいそうです」
「そうしよう。でも、私は心配なんだよね」
 彩子は私の視線を捉えて、続きを待った。
「透の気になることと言うのは、相手と話すタイミングが被ってしまったことを十分に謝れなかったとか、些細なことばかりだよね。でも、手に負えないほど動揺するでしょう。そんな透を安心させないと、気が狂ってしまわないかな?」
 彩子はもっともだと言わんばかりに頷く。
「透さんの治療は、嫌な状況にさらされても、不安を解消するための儀式をしないという曝露反応妨害法(Exposure and Response Prevention :ERP)で行われます。この治療方法だと、不安は時間が経つにつれて、低下していくそうです。その経験を繰り返せば、強迫行為をしなくても大丈夫だと学習するとのことです。成功経験を重ねるために、まずは小さな強迫観念を無視することから始めるようです」
「なるほど。強迫観念に負けて、強迫行為に走り、安心を手にすると、次もそうしようと思ってしまうわけか」
「まさにおっしゃる通りです」
「透にとって、辛い治療になるだろうね」
「はい。透さんは症状が強かったので、初診時にSSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)のデプロメールを処方されたそうです。薬で落ち着くと、ERPへの反応が良くなるようです」
「そうか。透、良くなって帰ってくるといいな」

 次の日の夜、入院中の透から電話があった。
「おう、透、治療はどうだ?」
「同じ病気の4人で、一緒に治療を受けています。大変なこともあるけど、結構楽しいですよ。毎日が新しいことの発見です」
 私は電話ごしの透の声が、ここしばらく聞いたことがないほど澄んでいることに驚いた。
「頑張っているな。治療方法は、彼女から説明してもらったよ」
「そうですか。羽生さん、いろいろ迷惑かけて本当に申し訳ないです。頑張って、少しでも早く良くなるようにします」
 死神のようだった透が前向きな発言をしていることに、涙腺を刺激された。
「それが聞けただけで十分だ。焦らなくていい」
 頷いた透は、やや間を取ってから切り出した。
「あの、水沢彩子さんのことなんですが……」
「うん」
「その、付き合うことにしました。彼女のためにも、良くなりたいと思うんです。これ以上、みっともないところを見せたくありませんから」
「そうか。そうなる気がしたよ」
「羽生さんに迷惑ばかりかけて、もうこの世から消えたいと思っていました。希望なんか何もありませんでしたから。でも……、彼女と一緒にいたいし、もう少し頑張ろうと思いました。今まで、俺は女から快楽を得ることばかり考えていたのですが、彼女を幸せにしたい、もらった幸せを返したいと思えたんです」
「良かったな……。彼女は幸福の女神だな」

 彩子が来てくれて本当によかった。

 透の生きたい、治りたいという意志は、彩子への恋心がなければ生まれなかった。彼女と出会わなければ、透は気になることが出てくるたびに私と問答をし、2人とも限界になって共倒れしていただろう。

 彩子はフェルセンの救世主でもある。今までは身内の道楽のような思いで店をやってきた。常連は、私の同僚や友人が主で、コロナに感染したら重症化が予想される高齢者が大半だった。そのため、どんなに感染防止対策を強化しても、なかなか戻ってきてくれない。彩子は、クーポン付きのチラシを作成して近隣の高校、短大、大学を中心に配布し、若年層の呼び込みに成功した。最近では、恋人の誕生日に生演奏をプレゼントしたい学生カップルが増えてきた。中には、常連になってくれた学生もいる。


                ★

 退院した透が弾き歌いするWhite Christmasが店内に響き渡る。大学生のカップルのために歌うことを意識し、甘く透明感のある声で歌っている。カップルは後方の席で、彩子は前方のカウンター席でうっとりと耳を傾けている。

 演奏を終えた透は、立ち上がってお辞儀をすると、カップルのテーブルに向かおうとする。彩子は、透に気になることが出たと察し、腕を掴んで強引にピアノの前に戻す。
「ミスタッチしたところがあるんだ。悪いから、謝って、もう一回弾き直したい」透が小声で彩子に訴える。
「わかってるでしょ?」彩子も声を落として尋ねる。
「でも、一回くらい、いいだろう?」
「だめ」
「わかった、そのままにする」
 きっぱりと言い切った透に、私は心の中で拍手喝采した。

 そのとき、カップルの男性が、ピアノの前に歩み寄ってきた。
「あの、ロマンチックな演奏をありがとうございました。生演奏とか、初めてだったので感動しました」
 彩子は透の肩を優しくたたき、カウンター席に戻った。
「いえ、今日はご来店いただきありがとうございました」
「コロナ感染が気になるので、今年はクリスマスに東京へ出かけるのを諦めたんです。そんなとき、この店の生演奏1曲サービスのクーポンを見つけて、これなら素敵な思い出が作れると思いました。少し早いけど、忘れられないクリスマスの思い出になりました。な?」
 男性は密を避けるために、席についたままの彼女を振り返る。童顔の彼女は目を輝かせて大きく頷き、ありがとうございましたと頭を下げる。
「こちらこそ、そういっていただけて嬉しいです。ぜひ、またいらしてください」
 男性は「絶対また来ます」と言って席に戻った。

「よかったね」彩子はピアノ椅子に掛け、緊張で荒い息を吐いている透の背中をさする。
「実は、あのままだと気になるから、お礼にもう一度演奏しますと言おうとしたんだ。でも、やめることにした」
「すごい、すごい! じゃあ、私のために何かきれいな曲を聴かせてくれる?」
「もちろん」
 彩子はピアノの前のテーブルに掛けた。

 今の透には、恋人の彩子に恥ずかしいところを見せたくないというプライドがあるから強迫行為を止められたのだ。私が止めたら、遠慮がない分、自分の意志を押し通そうとしてしまったに違いない。

 透は目を閉じて少し考えてから、長い指を鍵盤においた。

 バッハ「羊は安らかに草を食み」
 透は彩子を見つめながら、ゆったりと優しく奏でる。
 透の瞳に映る彩子は、この上なくやわらかい表情で微笑んでいる。彩子の瞳に映る透も、恋人に愛情と信頼を込めた視線を注いでいる。互いの瞳に、満ち足りた互いの姿が映り映され、あたたかい光を放つ。幸せそうな2人の姿に、私まで胸が温かくなる。
 
 他方で、私はそんな2人の行く先に一抹の不安を抱いている。2人の瞳に映る互いの姿が、ゆがんでいるからだ。

 透は強迫性障害になってから、人への接し方が極端に丁寧になり、以前を知る人は気味悪がる。かつての彼は、不遜な態度が目立ち、女性関係が派手だった。恵まれた容姿、ピアノと歌を武器に数多あまたの女性を口説き落とした。熱しやすく冷めやすいので、店で声を掛けた女性と別れるときに何度もトラブルになった。店の評判に関わるので、私は店でのナンパを一切禁止した。すると透は、華やかな容姿の親友と組み、しがらみのない都内に出て女をひっかけるようになった。透の好みは顔が派手でモデル体型、軽い大人の関係を楽しめる女性だ。今どうなっているかは知らないが、気が向いたときに呼び出して関係を持つ付き合いの長い女がいたと思う。たしか、部屋の合鍵も渡していたのではないだろうか。
 彩子は長身かつ細身でスタイル抜群だ。しかし、顔のパーツに秀でたところは見当たらず、十人並みのすっきりした顔立ちだ。軽い関係を楽しめるタイプでもない。苦しんでいた透には、彩子が天使に見えたに違いない。だが、透の病気が治ったとき、本来の好みとかけ離れた彩子への気持ちはどうなるだろうか。透を献身的に支えてきた彩子が傷つかないか心配だ。
 他方で、彩子の透に対する認識もゆがんでいる。彩子は強迫性障害に苦しむ透しか知らない。透の過去の女性関係を知ったとき、許容できるだろうか。一度だけ見た彩子の元彼は、エリート臭の漂う青年で、透とは全く違うタイプだ。人づてに、彩子と東大の大学院を出た寺の跡取り息子との縁談が出ているという話を聞いた。彩子は本来そうした男性と結婚するのが似つかわしい。彼女が透の実像を知って離れていったら、透の病気が悪化しないか危惧している。

 私は、透の病気が治っても、2人が交際を続けてほしいと願っている。だが、過去の透の姿を彩子に隠し通すことも、透に彩子を捨てるなと命じることも控えている。あくまで2人に任せるべきだと思うからだ。
 広くない街のことだ。そう遠くないうちに、透の良くない評判が彩子の耳に入るだろう。透と緩く続いている女と顔を合わせるかもしれない。私にできるのは、そのときに備え、過去の透の行動を会話にほのめかし、彩子に心の準備をさせるくらいだろうか。


                ★

「羽生さん、透さんのお家がどこにあるか、ご存じですか?」
 カウンター席でかけうどんを食べ終わった彩子が、マスクをつけ、アクリル板越しに話しかけてくる。透は、長崎出身の老女のために「長崎の鐘」を弾き歌いしている。
「透の家? 家はお母さんが亡くなったときに売ったんだ。今はお祖父さんが残してくれたアパートの一室に住んでいる。かなり遠いけどね」
「そうなんですか……」
「何か気になることでも?」
 彩子は透が演奏中なのを確認してから、声を落として続ける。
「透さん、私の部屋には来てくれるんですけど、自分の部屋には招いてくれないんです。行きたいといっても、いつも話をそらされてしまいます」
「まあ、古くてみすぼらしいアパートだかから、見せたくないんだろうね」
「そんなこと気にしてないのに……。私は強迫性障害に立ち向かう透さんの力強さ、素敵な音楽を好きになったのに」
 彩子は寂しそうに頬杖をついた。私は透が彼女を家に呼ばない本当の理由がすぐにわかった。そのことは、彩子のいないとき透と話し合わなくてはと思った。

 
 その話し合いは必要なくなった。
 1週間ほど経ったころだろうか。透と開店準備をしているとき、入口の扉が勢いよく開いた。
「すみません。ただいま、準備中です」
 掃除機をかけていた私は、振り返って言った。だが、入ってきた中年女性は、「失礼するわ」とピンヒールをかつかつと響かせて店内を進み、カウンター席に掛けた。きつい香水の臭いが鼻をつく。明るい髪色、サングラス、黒い布マスク、革ジャンに赤いスリムレザーパンツ、黒いピンヒール。午前の喫茶店では、重苦しさを覚える装いだ。
「透っ!」
 ややハスキーな声を聞き、すぐに記憶がよみがえった。

―透と腐れ縁だという年上の女だ。以前は、よくBMWで透を店に送ってきた。
 透が中学の頃から近所に住んでいて、初めて寝た相手。夜の仕事をしているので、日中は透の祖父母の介護を随分手伝ってくれていたと聞いた。たしか、乳がんで亡くなった透の母親が入院していたときにも病院で顔を合わせた。

瑠美るみ……」
 女は突然の来訪に困惑する透を意に介さず、早口で話し始める。
「何で部屋の鍵変えたの! 昨日、おじいちゃんの命日だったから、お線香上げに行ったのよ。今夜、行っていいよね? 何時に終わる?」
「羽生さん、すみません。少し話をしてもいいですか?」
「いいよ。2階にご案内したらどうだ」
 私は、この女に店にいてほしくないと思った。
「いえ、ここで」
 透はきっぱりと言い切り、女と距離をとってカウンター席に座った。
「吸ってもいいかしら?」
 女が革ジャンのポケットから煙草を出そうとしたので、私は「店内は禁煙です」と冷淡に言い放った。女は不機嫌そうに、細くて長い脚を組む。

「あまり時間を取れないから、ここで話そう。瑠美には言葉に言えないほど感謝している。でも、もうこの関係は止めて、互いの幸せを探そう」
「何が言いたいの? あたしたちはずっと、必要なときに助け合う理想の関係だったじゃない。豆腐メンタルのあんたが、簡単に断ち切れるの?」
「頭の切れる瑠美なら、十分にわかっているだろう。会っても、もう気持ちは盛り上がらないし、あるのは燃えかすだけだ。惰性で会い続けても、何も生まれない」
 女は一瞬反論の言葉を失った。だが、猛獣に追い詰められた小動物が、逆上して猛獣に襲い掛かるような勢いで話し出す。
「散々、あたしを頼って、利用しといて、何その言い方!! 頭がおかしくなったって聞いたから、心配して来てやったのに随分な態度だね!」
 透は平然と女を見つめ、感情の起伏を排した声で言い渡す。
「心遣いありがとう。いろいろ本当に申し訳ない。だが、もう祖父母の命日に来なくていい。瑠美はもう十分なことをしてくれた。悪いが、俺の部屋に来るのも止めてほしい」
 女は透の冷淡さに、何かを思い出したように話し出す。
「ああ、そうだ。あんたが地味顔の背が高い女と一緒にいるの見たよ。女の車に乗ってるところも。あの女にマジになったわけ?」
「そうだが」
「あんなの全然あんたの好みじゃないじゃん。そもそも、あんたが、ああいう女に本気で相手にされると思ってるわけ?」
「それは彼女が決めることだ」
 透は時計をちらりと見て立ち上がり、「今まで本当にありがとう」と深く頭を下げた。
「わかったよ。御礼に、あの女にあんたのこといろいろ教えてやるよ!」
 透は女を射殺さんばかりの視線でにらみつけた。
「彼女には一切近づくな。もし何かしたら、警察に通報する!!」
 女は透の気迫と怒号に言葉を失って凍りついた。
 透は表情を緩め、女にやわらかい視線を注ぐ。
「瑠美のこれからが幸せであることを心から祈っている」
 透はカウンター席から勢いよく立ち上がった女の背中に手を当て、車まで送った。

「お騒がせして申し訳ありません」
 戻ってきた透は深々と頭を下げた。
「いや……。いつもの透とは別人だったな。どう見ても、加害恐怖を患う患者には見えなかった」
 透は居心地悪そうに視線をそらす。
「部屋の鍵、変えたんだな」
「ええ、彩子に嫌な思いをさせたくないんです。しばらくは、彩子の部屋に寝泊まりさせてもらって、彼女を守ろうと思います」
 透は決然とした目で、私を真っ直ぐに見据えた。
「うん。彼女が店にいるときは、私も嫌な思いをさせないよう注意して見ているよ」


                 ★
 閉店作業をしているとき、店の裏に設けたゴミ置き場から彩子の頓狂な声が響いた。テーブルをアルコール消毒していた私は、何事かと外に出た。
 透がゴミ袋の前に立ち、目を閉じて頭を垂れ、口の中でぶつぶつ言っている。傍らに立つ彩子は、不審なものを見るような視線を注いでいる。
「透は何してるの?」何か異様なものを見てしまった気がし、小声で彩子に尋ねる。
「ゴミに感謝しているそうです」
「何だってっ?」
「ゴミを捨てるとき、お役目ご苦労様です。長い間、本当にありがとうございました。さようならと10回言わないと気になって仕方ないんだ。途中で邪魔をされると、最初からやり直さなくちゃならない」透が口の中で、もごもご言う。
「人に対する加害恐怖と不完全恐怖を克服したと思ったら、物に対するそれが出てきたんですよ」彩子が軽く腕組みをし、大きな溜息をつく。
「これは前からやっていたんだ。誰に迷惑をかけるわけでもないからいいだろう。おまじないみたいなもんだよ」
「ダメ。何度言っても言い足りないような気がして、止められなくなるでしょう? 新しいエクスポージャーの課題ができたね、おめでとう! 桐生心理士に報告しようっと」
 彩子は透が凝視していたゴミ袋を持ちあげ、とんとそこに置く。
「これで離れること! 普通の人はそうしてるよ。わかってると思うけど、心の中でお礼やお詫びを言ってはだめだからね」
 彩子が透の背中に手をまわし、くるりと向きを変える。透は彩子の手を振り払って、ゴミの前に戻り、ゴミ袋の底とコンクリートの地面を触って何かぶつぶつ言い始める。
「強く置くと、ゴミ袋と地面に痛い思いをさせている気がして、触って謝らないと気が済まないんだよ!」
「そういえば、透、何かにぶつかったり、物を落としたりしたとき、触って何かぶつぶつ言ってたな。あれも強迫行為だったのか」
「そういう儀式をしたら、罰ゲームでハイスクワット50回ね! さ、戻ろう!」
 彩子は透の腕を取り、店の入り口に向かって軽快に歩き出す。

 私は透が血相を変えて彩子の腕を振り払い、ゴミの前に戻って、感謝と謝罪を始めて動けなくなるのではないかと危惧した。
 だが、透は店内に戻ると、軽く手を洗ってから、ゴミ箱に新しいビニール袋をかぶせ始める。彩子は目を輝かせ、「透さん、すごいね!」と優しく背中に手をまわす。

 透を見上げる彩子の瞳に、決意を胸に秘めた表情の透が映る。透の瞳には、恋人を誇らしげに見上げる彩子が映る。
 彩子の放つ光は、透の世界も、私の世界も、店の未来も彩り豊かに照らしてくれる。彼女の世界も、逆光を受けて豊かな色彩を帯びていく。ゆがんだときを過ぎても、2人はしっかりと地に足をつけて歩いている。互いの瞳にどんな姿が映り映されても、2人は互いを見つめ続けるだろう。 
 フェルセンは、そんな奇跡のようなめぐり逢いが生まれる場であり続けたい。

(完)

「ピアノを拭く人」は、以下で読めます。

※ 参考文献等は、「ピアノを拭く人」 第4章(13)に列挙してあります。