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連鎖 2-(4)


 その翌日、桐原と東が「久しぶり~!」と何事もなかったように練習に戻ってきた。凪が慌てて2人の楽器と譜面を出すと、2人は以前のように第1を練習し始めた。

 2人は楽器から離れていた影響を全く感じさせず、伸びやかな高音を音楽室に響かせた。その音には、空に抜けるような透明感があり、凪が渾身の力で出す聞き苦しい音とは明らかに違った。一緒に音を出すと、その違いが悲しいほどに際立つ。凪は音楽室に安堵の空気が流れたのを感じ、唇を噛んだ。

 今ほど、誰にも文句を言わせない実力が欲しいと思ったことはない! どんなに練習しても、先輩に追いつけない自分が堪らなく悔しかった。

 いつの間にか、本番でも第1を吹けるような錯覚に陥ってしまったが、そもそも自分は練習のときだけのつもりで引き受けた。その役目は終わった。そう言い聞かせても、練習し続けた日々を思うと、体の芯から崩れ落ちそうな疲労が襲ってきた。


 音楽室に入ってきた香川は2人を一瞥したが、何も言わずにスコアと指揮棒を出して合奏の準備を始めた。彼が自分を見限り、2人を説得して練習に戻らせたと思うと、その態度にも説明がつく。吹奏楽祭のことを考えれば2人を呼び戻したのも道理だ。誰が見ても、合理的な判断だ。だが、必死で第1を練習した自分の気持ちははどこにいくのだろうか……。

 凪は気が抜けて帰りたくなったが、辛うじてその衝動を抑え、指揮棒が上がると半ばやけになって第2を鳴らした。

 だが、香川は曲を通した後で「橘は第1のままでいい」と指示した。

 凪は一瞬で絶望から引き上げられたが、次の瞬間、桐原と東の刺すような視線を感じて凍りついた。

「3人で第1? 第2がいないと、合奏にならないじゃないですか」桐原が突っかかった。

「それなら、2人のどちらかが第2を吹いてくれないか?」

 香川は間髪入れずに言った。凪は空気が凍りつくのをはっきりと感じた。

「私達と橘さんは、息の強さが違います。一緒に第1を吹いたら、音が合わなくて汚くなります」

 控えめな東も声をあげた。凪は東の言葉に傷つかなかったと言えば嘘になるが、誰が聞いても彼女が正しいとわかっているので、自分は第2でも第3でもいいですと声をあげた。

 だが、香川はそれを制するように言い継いだ。

「2人が練習に来なかった間、橘に第1を吹いてもらった。橘は2人の10倍は練習して、使い物になるレベルに近づいている。本番もこのままやってもらう。2人は本番に出たいなら、私が彼女にした指示を聞いておけ。それに従って演奏するなら認める」


「帰ろう!」屈辱で浅黒い顔を赤くした桐原が、東を引っ張って出て行った。


「橘、本番も頼むぞ」

 2人の靴音が遠ざかるなか、香川は凪の目を見据えて言った。凪は責任の重さに、体が熱を帯びるのを感じたが、桐原と東のことを思うとその熱はさっと引いていった。


「凪、今日から居残り練習、付き合うよ」

 合奏終了後、酒井と薫が、複雑な表情で桐原と東の楽器を片付けている凪に言った。

「え、悪いからいいよ」

 凪が遠慮すると酒井が耳打ちした。

「裏校則の番人みたいな2年の太田先輩いるでしょ。彼女が、ガイジンのファンだって知ってる? 彼女、凪がガイジンと居残り練習してるって噂で聞いて妬いてるらしい。だから、ガイジンと2人にならないほうがいいよ」

 先輩との関係で苦労してきた酒井は、こうして同級生に助言をしてくれる頼もしい存在だった。凪は太田一派に締められる自分の姿が浮かび、畳んだ譜面台を持ったまま凍りついた。自分は香川を恋愛対象として見たことなどない!

「冗談じゃないよ! そんなこと言われるくらいなら、残って練習するのやめるよ! 好きで第1を拭いてるわけじゃないんだし」凪は吐き捨てるように言った。

「大丈夫だよ。凪は何も悪くないんだから、今までのように練習すればいいんだよ」

 珍しく声を荒らげた凪を薫が宥めた。

 本音を言えば、まだ練習したかった凪は、香川と2人にならないですむのがありがたく、前日まで2人に付き合ってもらうことにした。

 


 結局、桐原と東は練習に戻らず、本番も凪が1人で第1を吹く流れになりそうだった。香川は重圧に押しつぶされそうな凪に、「誰もA中に素晴らしい演奏を期待しちゃいない。無理をせずに、練習してきたことを出せば十分だ」と勇気づけた。

 凪は、練習でできたことが本番でできず、香川を失望させないかが不安だったが、ここまできたら、悩んでも仕方ないと腹をくくり、入念に唇のケアをした。

 だが、当日の朝、桐原と東は当然のようにやってきて第1を練習し始めた。凪は驚いたが、恥ずかしい演奏をしないで済むことに安堵し、何も言わずに第2を吹くことにした。

 他のパートにも、ろくに練習に出なかったのに、本番に出るつもりで来た先輩がたくさんいた。部長の熊倉と副部長の安西が、困惑する香川に、松山時代は当たり前だったことなので、何も言わずに舞台に出すようにと説得していた。1年は、こんなことがあっていいのかとひそひそ言ったが、先輩たちが悪びれる様子はなかった。 

 
 凪の初舞台は夢現ゆめうつつのまま始まり、必死で吹いているうちに終わってしまった。香川の指揮棒が力強く振り下ろされ、それに合わせて最後の音を吹いた瞬間は鮮明に記憶している。

 彼は腕を下ろすと、ライトを浴びて紅潮した顔で立ち上がるよう合図した。凪は興奮冷めやらぬまま楽器と譜面を持って舞台袖を抜けた。

 ホールの外に出て、夏の陽射しを浴びて現実に戻り、演奏を振り返れば、悔いが残った箇所もあった。だが、合奏に貢献できた手応えは残り、清々しい気分だった。ホールを囲む木々からさす木漏れ日が、銀色のトランペットに反射して眩しく、蝉の声がやかましかった。