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巡礼 7-(4)

「では、徴兵されたのですか?」
「1943年10月に学徒動員がかかった。10月に明治神宮外苑競技場で開かれた出陣式にも出た。学帽と学生服で、銃を担ぎ、足にゲートルを巻いて行進した。雨降りだったけど、行進の頃は上がっていたと思う。12月10日に海軍に入団」


 都はドキュメンタリー番組で見た秋雨に濡れる学徒の姿に、言いようのない悲壮感が漂っていたのを思い出した。都は二世の彼が、どんな思いを抱えて行進していたのかと思いをめぐらせずにはいられなかった。
「アメリカで生まれ育った原田さんが、日本の軍人としてアメリカと戦うのはどんなお気持ちでしたか?」
「そりゃ、行きたくなかった。アメリカの広大な国土や工業力、生活水準を知っていたから、日本が勝つのは難しいと思った。実際、戦況が厳しいことはうすうす伝わってきたし、食物や生活必需品はどんどんなくなっていった。英霊の帰還は増えるし、追い詰められているのは明らかだった。それでも、自分は日本国籍があって、その時日本にいたのだから、行くのは仕方がないことだろう」
 都は何も言えずに頷いた。
「入団前、宮子さんに会いに行った。この頃、私達は互いに頼りあっていたから、彼女はとても悲しんだ。休暇をもらえたときは、必ず会いに来てと言ってくれた。暫くして、彼女が日米学院に千人針を届けてくれた。それが嬉しくて、気持ちが奮い立った」
 彼の瞳に、柔らかな光が宿っているように見えた。都は2人が親密さを増していくことにもやもやした思いが湧き、彼らはアメリカにいるミツの気持ちを考えたのかと憤りを覚えた。だが、それ以上考えないようにして質問を続けた。


「海軍では、二世は通信要員になった人が多いと聞きましたが」
 都は井沢から聞いた話を思い出して尋ねた。
「通信に行ったやつは多かった。でも、私は飛行機に乗りたかった。船が沈むのは自分の力ではどうにもならないでしょう、でも飛行機なら自分で操縦できるし、自分の技術で運命を決められる気がした。
 最初に、初年兵教育。階級は2等水兵で、ジョンベラと呼ばれる水兵服を着せられた。ここで、日本の軍隊の規則に縛られた生活と厳しい上下関係を叩き込まれた。考えるより、体で反応するのが身を守る方法だった。納得できないことで何発も殴られ、そういうものだと割り切れるまで、腸が煮えくり返る思いだったよ。アメリカでは、納得できないことは主張するのが当たり前だったが……。
 オシタップ、チンケース、食器マッチ、内舷マッチとか海軍用語を覚えるのも一苦労だった。私は日本語の会話がやっとだったから、最初から目をつけられ、修正を加えてやるとよく殴られた。自分が失敗するとグループ全員が殴られるので、気を遣った。必要な言葉を頭に叩き込み、それ以外はなるべくしゃべらないようにしていた。

 1944年2月に海軍飛行予備学生として、茨城県の霞ヶ浦近くにある土浦海軍航空隊に移った。土浦の寒さは厳しくて、赤ぎれから血を流しながら洗濯したことを思い出すよ。晴れた日は筑波山がくっきりと見えた。土浦では海軍士官としての精神やマナー、気象とか数学とかの教科も短期間で叩き込まれて、試験に追われる日々だった。
 上官から飛行機乗りはいつ死ぬかわからないから、私物が他人の目に触れることを意識して、身辺整理をしておけと言われた。自分が生きて帰れないかもしれないことは、覚悟していた。訓練が始まってからも、死ぬのが目的のような訓示を聞かされて、娑婆っけが抜けない私達にもそれが当然のような雰囲気が浸透していた。
 ただ、死ぬためには、何のために死ぬのかという信念が必要だろう。私は祖国を守るために死ねる日本人が羨ましかった。勿論、彼らにも凄まじい葛藤があって、それを強靭な意志で克服しようとしていたのだろう。でも、私は日本に来て3年と少しで、祖国のために死ぬという境地に到達できていなかった。
 子供の頃から差別に傷ついてきたから、アメリカへの憎しみをかきたてることはできた。いやな奴の顔ならいくらでも浮かんだし、そいつをやっつけると思えば闘士も湧いた。それでも、私は22歳までアメリカで暮らし、学校では胸に手を当てて星条旗に忠誠を誓った。日本語がわからなくていやな思いをするたびに、自分はアメリカでは優等生だったと心のなかで叫んだ。自分の帰る場所はアメリカだという思いに支えられてきたのも事実だ。
 満天の星空の下、夜間飛行訓練をする機を見上げながら、アメリカの家族や友人を思った。ミツも徴兵されて戦場にいるかもしれない。自分は彼らを撃てるだろうか。考えれば考えるほど、割り切れない思いに囚われた。それでも私は、迷いが出るたびに、自分は帝国海軍の士官なのだから、任務を果たすしかないと割り切った。飛行機乗りとして覚えることは山ほどあって、考えている暇などなかった」


 都は、否応なしに日米関係の荒波に飲み込まれた彼が、その運命を受け止め、帝国軍人として地に足をつけようとしている悲壮な覚悟に心打たれた。彼は何十年もの時を経て、気持ちを整理させて語っているが、当時はもっと荒々しい、言葉に収まらない葛藤があったに違いない。病み上がりの彼に、辛い回想を強いるのは心苦しかったが、自分が記録しないと彼の思いは残らないと気持ちを奮い立たせた。


「1944年5月、基礎教程を終えた私は、希望通り操縦専修要員になって、中間練習機教程を受けるために谷田部航空隊へ移った。また、筑波山を眺めながらの日々だ。飛行服や飛行帽、飛行手袋、飛行靴とかを支給されると、格好だけは搭乗員になった気分だった。
 私達は93式中間練習機で訓練を受けた。オレンジ色に塗ってあるので、赤トンボと呼ばれていた機だ。2人乗りの複葉機で前後に席があって、後部座席にも操縦桿や計器がついていた。予備学生は、教官や教員に同乗してもらって交代で訓練するので、1日に乗れるのはせいぜい30分くらいだったな。
最初は教員に同乗してもらって、離着陸の練習。2週間くらいで、単独飛行を許された時の感激は今でも覚えている。練習機教程を修了したのは、田んぼが黄金色に染まり始めた頃だった。
 この頃、海軍の燃料不足は深刻で、飛行訓練ができない日が多かった。そんな日々のなか、考えたのは宮子さんのことだった。彼女がくれた手紙にどれだけ支えられたか……。単独飛行が許可されなくて焦っているとき、自分の失敗で仲間を危険な目に遭わせてしまって自己嫌悪に襲われたとき、彼女の手紙を読み返すことで慰められた。
 その年の12月25五日、私は少尉に任官して、海軍練習航空隊特修学生になった。そのとき撮った写真を彼女に送った。裏に『貴女を守るために戦います』と書いた。軍隊では手紙は検閲されて、家族以外に書くことは禁じられていたから、上陸と呼ばれる外出が許された日曜日に、外のポストから出した。
 私が上陸できる日曜日、彼女は手作りのおはぎを持って何度か土浦まで会いに来てくれた。夢のような時間だった……。思い込みかもしれないが、この頃から、彼女が私を見る眼差しが変わった気がした。以前は、私の向こうにミツの面影を見ていたのがわかり、それが辛かった。でも、この頃には、優しい眼差しで私を見てくれるようになった」


 彼の表情は柔らかく、声のトーンもいくらか上がっていた。都は親密感を増す2人に、良と茜の姿が重なって息苦しさを覚えた。


 そこまで話すと、彼は「少しくたびれた」と言って目を閉じた。時計を見ると、3時間が経過していた。都は明日同じ時間に来ることを告げ、お礼のメモをテーブルに残し、静かに部屋を辞した。


 外に出ると南国の強い陽射しが目を刺し、新鮮な空気が肺になだれ込んできた。都は生の世界に舞い戻ったような気分で、新鮮な空気を貪った。彼の家から遠ざかりたい衝動で、バスを待たずにタクシーで市の中心部に出て、ビジネスホテルに直行した。
 せっかく沖縄に来たので、賑やかな国際通りを散策し、郷土料理を食べたかったが、インタビューを聞き直し、明日の質問事項を検討する仕事が残っていた。都はコンビニでおにぎりとサラダ、飲み物を買い、部屋で簡単に夕食を済ませた。熱いシャワーを浴び、ベッドに大の字になってインタビューを再生しながら、長かった1日を思い返した。


 インタビューを終えると、人生の大先輩と向かい合った緊張感と、2つの国に翻弄された彼らの数奇な人生に圧倒され、くたくたになってしまう。だが、疲れているはずなのに神経は高ぶっていて、朝まで眠れないこともあった。一夜明けると、別の言葉で質問すればもっと深い答えが聞けたのではないか、あの言い方は失礼でなかったかなど、際限のない反省と自己嫌悪に襲われ、立ち直るのに時間を要した。自分はインタビューに向かないのではないかと欝気味になり、逃げ出したくなったこともある。
 それでも、自分が記録しなければ彼らの声は残らないという使命感と、自分のために時間を割いて語ってくれる彼らに支えられ、インタビューを続けてきた。数を重ねるにつれ、年輩者との接し方、言葉の選び方や相槌の打ち方もいくらかましになり、感情の処理も前より器用にできるようになった。ある程度、経験を積んでから、彰のような難しい人物に出会えたのは幸いだった。


 だが、彼の話は都の心をかき乱していた。考えないように努めているものの、ミツと彰、宮子の関係が、自分と茜、良の関係に重なり、別の角度から映し出されているように思えてならなかった。
 長男として生を受け、容姿に恵まれ、文武両道で周囲の信頼も厚かったミツは、その存在だけで彰を苦しめた。ミツは弟を苦しめる意図などなく、純粋に弟を愛していたのだろう。それでも弟の心には、いくら努力しても兄に敵わない屈辱と、養子という劣等感が影を落とし続け、兄への憎しみが蓄積されていった。どちらが悪いわけでもなく、どうしようもなく悲しい運命に思えた。
 都の胸に、茜が良に抱いてほしいと哀願したときの言葉が蘇った。茜は都の父も、実母も都に気を遣うと涙ながらに訴え、彼女が一目惚れした良まで手に入れた都への嫉妬を剥き出しにしたという。今まで茜への憎しみばかりが先行し、その言葉と向き合う余裕などなかった。だが、今思えば、自分が茜を軽蔑して向き合わなかったこと、そして自分の存在自体が彼女を苦しめていたのかもしれない。良はそんな茜の悲しみに心を揺さぶられたからこそ、突き放せなかったのではないか。都の体を強い衝撃が走り、思わずベッドから起き上がった。だが、自分が家事と勉強を両立してきたのは悪いことなのか。父や貴和子さんが都に配慮してくれたことは都の罪だろうか!良を失ったことは自業自得なのか! 

 枕元に置いたレコーダーから、彰のぼそぼそとした語りが流れ続けた。彼のミツへの屈折した思いは、どこへ行くのか。人材不足に悩まされていたMISが、日本で大学教育を受けたミツを見逃すはずはない。ミツが占領期に来日した可能性は極めて高い。都は戦争で引き裂かれた兄弟の人生が、戦後どう交差するのかと思いを巡らせた。