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連載小説「クラリセージの調べ」2-1

 
 結翔くんは、毎朝6時半に起床し、疾風のように身支度と朝食を済ませ、7時に家を出る。私はそれに備え、5時半に起きて朝食の準備をする。

 朝食は、大きなおにぎり1個、野菜たっぷりの味噌汁と玉子焼き。朝食に何が食べたいかを尋ねた時に言われたメニューだが、義両親の住む母屋で食べていたものだとわかった。一人暮らしが長かった私は、離れに住んでも母親に食事を作ってもらっていたことに違和感を覚えたが、彼が環境を大きく変えずに仕事ができるのが一番なので、同じメニューを引き継いだ。食べ終えた彼は、「ご馳走様、うまかった」の一言を欠かさず、歯磨きもそこそこに出ていく。

 初めは、味噌汁には京葱きょうねぎをたっぷり散らしてほしい、おにぎりの具は鮭かツナマヨ、玉子焼きにはゆかりを入れてなどのリクエストがあった。実家と同じ味を求められることに複雑なものを感じたが、渋々それに応じていると、毎朝同じものを作ればいいので案外楽になった。
 味噌汁の味が違うと、やんわりと言われ、実家で使っている顆粒出汁を勧められたときはさすがに癇に障り、昆布と鰹節で出汁をとる私の味を受け入れさせた。別の環境で生活していた二人が一緒に暮らすには、譲り合いのバランスが必要だと日々実感している。

 彼を送り出すと、私は玄米と味噌汁、野菜サラダという繊維質たっぷりの朝食と、鉄と葉酸のサプリメントを摂る。味噌汁には鉄分の多い豆腐や小松菜を入れ、妊娠しやすい体質への改善を図っている。

 食事が済むと。洗濯機を回しながら、掃除機をかける。彼は掃除機の音が嫌いなので、義母はペーパーモップとコロコロで掃除していたらしい。それに倣い、私が掃除機をかけられるのは彼がいないときだけだ。

 築4年の家は傷みが少なく、掃除はすぐに済んでしまう。水回りをきれいにすると、通信制の英日翻訳講座の勉強をする。英文科にいたときピークだった英語を鍛えなおすのはしんどいが、いずれ翻訳の仕事をしたいので、この期間を最大限に利用している。

 勉強が一段落すると、朝の残りで昼食を摂り、夕食とお風呂の準備にかかる。そのあとは、彼が戻るまで、趣味のアロマテラピーを楽しむ。会社員時代に、アロマテラピーインストラクターとブレンドデザイナーを取得しているので、香りにはこだわりがある。精油を使い、虫よけや黒カビ防止のスプレーを作っておく。ティーツリーの精油を使ったスプレーを使うようになってから、風呂場のカビとの戦いが楽になったと彼に感謝された。

 彼の帰宅は、19時から20時のあいだだ。季節は夏に入り、代謝の良い彼は汗ばんで帰ってくる。彼が柚子ゆずの精油が香る風呂で汗を流した後、二人で食卓を囲む。

「これ、実家の梅干し?」
 彼が、大葉と胸肉の和風パスタを口にして尋ねる。
「よくわかったね。今日、お義母さんがおすそ分けしてくれたの。その梅干しを刻んだのと梅昆布茶で味付けしたんだけど、どう?」
「旨いよ。こういう食べ方もあったんだな」
「よかった、お口に合って。今度、晩酌に梅干しサワー作るね」
「いいね。梅の酸味が疲れた体に効きそうだ。ところで、おふくろ、ちゃんとチャイム鳴らしてる? この家の鍵を取り上げるときに一悶着あったから心配でさ」
「うん。今のところは」
「それならいいけど。嫌なことがあったら、俺に言えよ」
 彼の口調には、私を慮る思いの下に、母親とトラブルを起こしてほしくない思いが透けて見える。

 私は軽く頷いて食卓につき、ボールに入れたサラダを自分の取り皿にたっぷり移す。サラダには、鉄分を摂るために豆を入れることも意識している。

「お義母さんに梅干しいただいたから、何かお返ししたほうがいいよね?」
「別にいいんじゃね。その梅干しは、ママさんバレーの友達が、毎年大量にくれて、消費に困るやつだし」
「そう……」

 彼はそう言うが、ケチだと思われたくないので、負担にならない程度にお返しをしようと考えていた。そして、専業主婦でいさせてもらう負い目もあり、母屋から皇太郎くんの声が聞こえるたびに、手伝いを申し出るべきか逡巡している。

「じゃあ、皇太郎くんが来ているとき、おやつに米粉パンを作って持っていくのはどうかな? 小麦粉だとアレルギーがあるかもしれないから。もし、皇太郎くんが食べないなら、お義父さんとお義母さん、おじいちゃんが食べてくれてもいいし」
「それならおふくろも助かるんじゃないか。皇太郎が小麦アレルギーと聞いたことはないよ」
「よかった」
「そうだ。絹姉ちゃんは、売ってるお菓子は添加物がすごいから、皇太郎に食べさせるなっておふくろに言ってた。おやつはおふくろが手作りしてるらしい」
「そうなんだ。余計なものは入れないから大丈夫だと思うけど」
「なら、いいと思うよ。けど、米粉パンなんて、どうに作るんだ?」
「ああ、ゴパンっていうホームベーカリーを持ってきたの。場所をとるから、二階の押し入れにしまってるけど」
「そうか、澪は何でも作れるんだな。二階から降ろすなら、今夜俺がやるよ」
「ありがとう」

 食事を終えた彼が、リビングで授業準備をしているあいだ、私は片づけと朝ごはんの準備をして入浴する。

「あの、結翔くん。今日から4日間くらい、可能性あるから……」
 濡れた髪を乾かした私は、テレビを見ながら作業する背中に声をかける。
「おお、もう少ししたら上がる」
 彼の表情はわからない。だか、かすかに空気が緊張したのがわかる。

 結婚から3か月、毎月この会話を繰り返すうち、季節は春から夏に変わった。疲れている結翔くんに申し訳ないと思いながらも、今年34歳を迎える私は焦りが募る。いまのところ、彼は文句を言わずに応じてくれる。にも関わらず、排卵日周辺にタイミングをとっても、高温期が終わり、生理が来てしまう失望は大きい。だが、鮮血の温かさと鉄のような匂いは、まだ新たな生命を宿せる可能性を示唆してくれる。

 二階の寝室に上がり、ベッドで微睡ながら彼を待つ。アロマディフューザーから、催淫効果がうたわれるイランイランが香る。ディフューザーの光が揺れ、妖しい空気を醸し出す。

 彼は、私を包むように覆いかぶさり、接吻から愛撫に移る。充血して硬くなったものを太腿に感じると、それを含んでゆっくりと愛していく。口のなかで大きくなっていくものを感じながら、私の脚のあいだのトンネルも水をたたえる。以前はなかなか水が湧き出さなかった私のトンネルは、かつて愛した人によって、温かい水で満たされる歓びを教えられた。あの人が身体に刻んだものは、新しい航海に乗り出した私の船が座礁しないよう、澪標みおつくしになってくれている。やがて訪れる新しい命とともに、航海を続ける道筋をつくってくれるだろう。

 茂みの奥の扉をこじ開けた彼は、トンネルの襞を力強くかきわけ、道を作るように動き始める。滴る汗が私の肌で熱を失う感覚が、離れた場所から工事を監督するような気分に引き戻す。見上げていた彼の顔が、不意に回転して下になり、私は彼を見下ろす位置でドリルのように拍を刻む。彼の眉間に苦しそうなしわが寄り、私は彼とつながったまま再び仰向けにされる。暗闇のなかで、逞しい工夫のような影の動きが激しさを増す。野性的な咆哮とともに、私のトンネルは温かい液で満たされる。

 太古から、生き物はこうして新しい命をつないできた。この営みがそれに連なることを願い、下腹に手を当てる。