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巡礼 4-(1)

 父は都が思いつめた行動に走らないかを心配し、頻繁にアパートにきて罵詈雑言を受け止めてくれた。1ヶ月ほど経ち、ようやく都が平常心を取り戻した頃、父は少し日本を離れたらどうかと勧めた。研究留学を経験した父は、機会があれば都と京輔を留学させたいと言っていたので唐突な話ではなかった。だが、都は心身ともにぼろぼろの自分に、どうして外国暮らしを勧められるのかと父の神経を疑った。

 その反面、古今東西の文学に出てきた転地療養という考えが都を捉えていた。全てから離れ、知らない土地で心身を立て直すことは、かえっていい薬かもしれないと思った。
 

 他方で、医学部志望の京輔の学費、これからかかる良と茜の新生活の費用を思うと、父に負担をかけたくないという思いもあった。真面目一筋で生きてきた都には、大学を留年するかもしれないことにも抵抗があった。
 だが、都は悩んだ末、父の好意に甘えるしかないと結論づけた。日本にいなければ結婚式に出なくて済む。親戚や友人の憐れみの視線を受けなくて済むのは、プライドの高い都にとってせめてもの救いだった。



 1998年8月末、都は3ヶ月間の語学研修を受けるため、ロサンゼルスの土を踏んだ。都はエリートの香りがするアメリカ東海岸を望んだ。だが父は、寒さが厳しく、灰色の空が心を沈ませる東海岸は心身に良くないと年中温暖な西海岸を勧めた。
 降り注ぐ太陽を浴びて伸びる椰子の木と、鮮やかな南国の花々は傷心の都には眩しすぎた。多民族が入り混じる都市の活気は息苦しすぎた。それでも、ここには良とつながりのある風景はなく、目と耳、鼻や口、皮膚からも日本と違う刺激が入ってきた。時の流れは人を苦しみから解放するというが、空間的な移動や環境の変化もそれを手伝うと知った。
 語学学校の授業や宿題に悪戦苦闘し、ホストファミリーや友人との関係を作るのに必死になっている日中は、忌々しい出来事に心を占拠されないで済んだ。英語で身の回りのことをこなさなくてはならない重圧は思った以上に大きく、感傷に溺れている暇などなかった。
 それでも、人目を憚(はばか)らずに濃厚な接吻を交わす恋人達を見ると激しい嫉妬にかられた。自分はもう良とあんなことができないと思うと、ナイフで胸を抉(えぐ)られるように辛かった。部屋で1人になると、あの日の記憶が蘇り、都を苦しめた。悪夢に声を上げて目覚め、夜明けまで涙が止まらない夜もあった。
 そんな哀しみを抱えて目覚めても、都は英語漬けの1日に飛び込んでいく。目の前にあることに全力投球していなければ、明日を生きる力さえ湧いてこないと知っていたからだ。語学学校の担任は、そんな都を前向きで英語を学ぶのに積極的だと成績レポートで評価してくれた。外国人の友人もでき、限られた語彙だが、どうにか意思疎通できるようになった。日本での都を知らない人は、明るく積極的な都が本来の姿だと思っただろう。



 だが、ホームステイ先のキムラ老夫妻は違った。人生経験が豊富な2人は、都が光を失った瞳で、何かから逃げるように生きていると気づいていた。彼女が泣き腫らした目で朝食の卓につくのも、単なるホームシックではないと思っていた。
 都がステイしたのは、ロサンゼルス北東のパサディナにある日系二世のキムラ夫妻が暮らす家だった。英語が不自由な都のために、父が仕事で知り合ったアメリカ人を通して探してくれた滞在先だった。夫のベンは73歳で元会計士。ベンジャミンという名は、日本から移民した父親の弁蔵(べんぞう)が自分の名前からとったという。妻のアイリスは70歳で、両親が「あやめ」にちなんでつけたと聞いた。


 2人は、亡くなった日本生まれの両親のことを話してくれた。ベンの父は、1892年に8人兄弟の6男として広島に生まれた。長男が家を継ぎ、兄や姉が次々と身の振り方を決めていくなかで、弁蔵は友人に誘われてアメリカへの出稼ぎを決めた。19歳のときだった。カリフォルニア州のソーテルでガーデナー(庭師)をしていた広島県人の助手になって仕事を覚え、やがて独り立ちした。1914年に親戚の紹介で同郷の美代(みよ)と写真を交換し、一度も合わないまま入籍した。美代は弁蔵の写真を握り締め、太平洋を越えて嫁いだという。「写真花嫁(ピクチャー・ブライド)」と呼ばれる当時多かった結婚方法だった。
 

 アイリスの父は、1890年に9人兄弟の次男として和歌山で生まれた。彼が20歳のときに長男が肺病で亡くなったため、家族を養うためにアメリカへの出稼ぎを勧められた。和歌山県人が集まったロサンゼルス港沖合のターミナル島で漁師をしているとき、小学校の同級生だったハマを妻として呼び寄せた。いずれ帰国するつもりだったが、金は思うように貯まらなかった。やがて2人は、ロサンゼルスのリトル・トーキョーという日本人街に移り、簡易ホテルを経営していたという。
 移民(イミグラント)という馴染みのない言葉は、都の想像力をかきたてた。移民と聞いて浮かぶのは、島崎藤村の『破壊』だった。部落出身であることを隠して教職に就いた青年は、それを隠しきれなくなって学校を去ることを余儀なくされ、テキサスに渡った。彼のように、日本での将来に行き詰まり、海の向こうで新たな一歩を踏み出した人々には、どんな人生が待ち受けていたのか。


 都はその次世代に当たるキムラ夫妻から、日本の名残を探した。彼らは「スパムむすび」などのアメリカナイズされた日本食を食べ、日本の季節行事を楽しむ。だが、彼らの母語は英語で日本語はほんの片言、考え方や話し方、動作の1つ1つまでアメリカ人だった。
 他方で、2人とも明治生まれの親に育てられた影響からか、時おり時代遅れの日本語が会話に混じった。都は日本から隔絶された地で明治の日本語が保存されてきたことを思うと、宝物を見つけたような気分になった。だが、彼らの会話を注意深く聞いていると、たまに「白人(ハクジン)」という日本語が顔を出し、社会の主流を構成する人々への複雑な感情が垣間見えた。都は、日本人の親に育てられながら、アメリカ人として生きてきた人生に、どんな苦労があったのかといつか尋ねてみたかった。