ピアノを拭く人 第1章 (10)
朝の澄んだ空気が、残っていた眠気を一掃してくれる。駅から試験会場となるC大学までの道を闊歩しながら、彩子は地図を片手に、外部誘導員に立ってもらう場所を確認する。愛らしい柴犬を散歩させる老人を横目で眺めながら追い越すと、前方にガラス張りの近代的な建物が姿を見せる。
正門の守衛所で手続きを済ませ、本部室として確保した2つの教室に向かう。その途上、自動販売機、喫煙所、証明写真機の位置、試験を行う棟までの導線を頭に叩き込む。キャンパスマップと見比べながら、誘導員の配置場所、立て看板や掲示を出す位置を入念に確認する。
人気のないキャンパスを歩いていると、自分の靴音がやけに大きく響き、追われているような焦燥感をかきたてる。広大な空間を独占している孤独は、試験運営の責任者という重圧と共鳴し、鼓動を速める。
会場リーダーは、スタッフが試験の設営から実施、会場の原状復帰をマニュアル通り行えるよう指示を出し、次々と出る質問に答え、不測の事態にも対応しなければならない。マニュアルから逸脱しない正確さと、予期せぬトラブルに対応できる柔軟さが要求される。母はアルバイトにもできる仕事と簡単に言ってのけたが、適正と経験がないと務まる仕事ではない。
本部室に荷物を置くと、試験室を小走りで見回り、空調や電気に不備がないか、机と椅子の配置が配席図と相違ないかを確認する。
ポケットのスマホが震える。運送業社から資材の箱を本部室に運び込んでよいかとの問い合わせだ。すぐにお願いしたい旨を伝え、急いで最後の1室の点検を終える。
全速力で本部室に戻ると、副リーダー3人が到着していた。息を整えながら自己紹介し、一緒に業社が運んできた箱の数を確認して伝票にサインする。集荷時間を確認して、業社を帰すと、本部付スタッフがさわやかな笑顔で出勤してくる。
スタッフの集合時間が迫っているので、本部室の設営が急務だ。はやる気持ちを抑えて、マスク越しのミーティングを終え、すぐに資材のカウントと試験室ごとの分配に入ってもらう。経験豊富な副リーダーたちは、思わず見ほれてしまうほど資材を数えるのが速い。山積みの資材が瞬く間に配置され、カウントのダブルチェックまで完了する。
そのあいだに、彩子は、もう1室確保した本部室のホワイトボードに、トイレの位置、自動販売機や喫煙所の場所などの共有情報を板書する。同時に、本部付スタッフが机にスタッフの席を示すシールを貼っていく。次々と到着するスタッフは、手指の消毒を済ませ、1日だけチームを組むスタッフと挨拶をかわし、マニュアルに共有事項を書き込んでいく。
朝の全体ミーティングは、彩子の進行で滞りなく進む。
「それでは、最後に時計合わせをします。現在、9時29分3秒です。9時30分に合わせますので、秒針を12の位置で止めておいてください。10秒前から、カウントします」
スタッフが腕時計のねじを巻いて針を合わせ、秒針とにらめっこをする。
「……5,4,3,2,1, 9時30分です。みなさん。合わせられましたか? 不安な方は、前に電波時計を置いておきますので、各自合わせて下さい」
副リーダーたちが、スタッフのあいだを歩き、時計が合っているか確認してくれる。
「ここからは、役割ごとに分かれます。監督員と監督補助員、フロア誘導員は隣室で試験資材と消毒液を受け取り、マニュアルに沿って試験室の設営を開始してください。設営ができた頃、副リーダーの太田さんがチェックに行きます。特別室の監督員さんは、説明事項がありますので、私のところに来てください。外部誘導員は、副リーダーの山田さんの指示に従ってください。繰り返しますが、感染拡大防止のために、各自細心の注意を払って行動してください。それでは、今日1日、宜しくお願いします!」
スタッフが一斉に動き出し、特別室の監督員の島田さんが彩子のもとにマニュアルを持ってやってくる。島田さんは草食動物を思わせる小柄の中年男性で、眼光が力強く、信頼できそうな人だった。
「本日、特別室で受験する方は1名です。強迫症の方です。不潔恐怖なので、問題用紙や解答用紙が床に落ちたら、新しいものを渡してください。解答用紙を落とした場合、落としたものも必ず回収して、受験者が持ち帰ることのないようにしてください。それから、試験中に手を拭きたくなることがあるので、ウエットティッシュを机上に出しておきたいそうです。各科目の試験開始前に必ず見せていただき、カンニングの可能性がないことを確認したうえで許可してください」
「かしこまりました。他に注意したほうがいいことはありますか?」
「申請されているのは、それだけなので、あとはマニュアル通りでお願いします。もし、困ったことがあったら、フロア誘導員を通して、私を呼んでください」
「了解しました」
島田さんが試験室に向かうと、彩子は2人の本部付スタッフに、戻ってくる解答用紙の確認を行うエリアを設置し、終わったら次の科目の資材を出しておくよう指示を出した。
訪れた束の間の空白に、特別室の受験者の症状が、トオルと似ていることが脳裏をかすめる。だが、考えてみれば、トオルは自分が汚れることは気にしていなかった。
駆け込んできたフロア誘導員が、フェイスシールドを上げて尋ねる。
「水沢さん、大講義室の監督員が、マイクの鍵がないと言っているのですが」
「あー、忘れてた!」
彩子は慌てて守衛から預かったマイクボックスの鍵をバッグから取り出す。操作方法の説明もしていなかった。
「あたし、使ったことあるので、説明してきますよ」
本部付きの増村さんが天使に見える。
「すみません、お願いします。鍵は監督員に預けてください」
「は~い!」
彩子はフロア誘導員と一緒に出ていく増村さんの背中に拝みたい気分になった。
「申し訳ございませんが、入室可能な時刻を過ぎていますので、本日は受験できません」
彩子は校門で、遅刻してきた受験者に自分の腕時計を見せながら説明する。
「地図がわかりにくくて、迷ったんです。何とか受けられないかね」
年輩の男性が、受験票に印刷された地図を指さしながら懇願する。
「皆様、同じ条件でお越しいただいておりますので……」
「もっと、わかりやすい会場にしてほしいね」
男性は憤懣やるかたない様子で、肩を怒らせて帰っていく。
彩子は男性を案内して校門まで走ってきた外部誘導員を労うと、特別室を含めた全試験室を一巡して問題がないか確認した。
本部室に戻りながら考える。外部誘導員が受験者を案内して、校門に滑り込んだとき、既に入室可能時間を10分過ぎていた。話を聞く限り、外部誘導員の対応に、問題はなかった。会場リーダーとして、毅然とした態度で、淡々と受験者に対応したが、もっと別の言い方もあったのではという思いも湧いてくる。
だが、そこに拘泥していては、目の前の仕事に集中できない。
本部室に入ると、副リーダーたちが、もうすぐ戻ってくる1科目目の解答用紙のチェックに備え、指サックをはめて臨戦態勢になっている。彩子も指サックを取り出し、答案を迎える準備をする。体内には、大量のアドレナリンが放出され、疲れを忘れさせていた。
3科目すべての解答用紙の枚数が合い、スタッフを解散し、資材を送り出すと、彩子は生ぬるくなったペットボトルの緑茶を飲み干した。朝から声を出し続けていたので、体が乾いたスポンジのように水分を吸収していく。
立ちっぱなしでむくんだ足で駅までの道を歩きながら、スマホで本社に終了の連絡を入れると、達成感と同時に、様々な後悔が脳裏にちらつく。
反省することはたくさんある。中でも、スタッフを解散させるとき、試験で知り得た情報を話したり、ネットに書き込んだりしないよう注意することを忘れ、副リーダーに言い添えてもらったことは大きなミスだ。マニュアルに明記してあり、朝のミーティングでも言及したが、解散前に念を押すのは必須だ。
いろいろ助けられたなと思った。彩子は1日一緒に働いたすべてのスタッフに感謝し、彼らを心から誇らしく思った。
閑散としたホームで、1時間に1本の電車を待ちながら、トオルが5時からフェルセンに出ていることを思い出した。
既に5時半を過ぎている。気分が高揚している彩子は、トオルに会いたいと思った。電車を乗り継いで帰宅し、車でフェルセンに向かえば、閉店までに着けるかもしれない。
はやる思いで帰宅し、汗ばんだパンツスーツを脱ぐと、何を着るべきか思いつかず、下着のまま鏡の前で立ち尽くした。初めてフェルセンに行ったときは、大和と会うためにお洒落をし、9センチのピンヒールまで履いていたが、トオルの目にさらしたのは濡れねずみになった姿だった。それ以降は、仕事帰りのオフィスカジュアルだった。
今夜初めて、トオルに会うために何を着ようかと考えていることに気づいた。
悩んだ末に、オリーブグリーンのシャツワンピースに、チャンキーヒールの黒いショートブーツを合わせることにした。もっと可愛らしい服にする選択肢もあったが、トオルの年齢を考慮すると、子供っぽく見られないかと心配だった。
化粧を直すと、既に7時半だった。もし、間に合わなくても、ピアノを拭いているトオルと話せるかもしれないという思いが彩子を急き立てた。