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連鎖 1-(4)

 第2音楽室には、女の陰湿さが醸し出す退廃的な空気が漂い、凪はそれだけで息が詰まりそうになった。凪たち10人の1年生は、授業が終わると音楽室に行き、まずは音楽室の机を後方に寄せ、椅子を合奏の配置に並べる。そして、部室から先輩の楽器と譜面、譜面台を出し、先輩の席に並べておく。

 凪は先輩が、自分の楽器の出し入れまで後輩に任せることに違和感を拭えなかった。20人ほどいる2年は、音楽室とドア1枚隔てた部室と呼ばれる音楽準備室にたむろし、黄色い声をあげて、おしゃべりに耽っていた。

 退廃的な空気は、既に1年にも伝染していた。1年は音出しを終えると、今練習している曲を軽く吹いた。それに飽きたら、楽器を置いて静かに座っているか、先輩に睨まれない程度の小声でおしゃべりをしながら時間を潰していた。同級生がすぐに楽器を置いてしまうなか、いつまでも吹いている凪のトランペットの高音が目立ち、気まずくなった凪も楽器を置かざるをえない。


 たまに、パートリーダーと呼ばれる各楽器のリーダーの2年が、メンバーを空いている教室に連れていってパート練習を行う。

 トランペットを担当する2年の桐原きりはらあずまは素晴らしい演奏技術を持っていた。パートリーダーの桐原は小学校からトランペットを吹いているが、東は中学から始めたという。だが、東には何でも器用にこなす資質があるらしく、大して練習熱心でないのに桐原にひけをとらなかった。凪はトランペットに割り振られてすぐに、桐原が自分を目の敵にする太田と同じクラスで、行動を共にしている人だと気づいた。何かあったら告げ口されると思うと、ますます心休まらなかった。


 凪は早く先輩に追いつきたくて、1分でも多く練習したかった。だが、2人が合奏やおしゃべりを始めたとき、凪が音を出すと睨まれるので、楽器を膝に乗せて静かにしているしかない。これでは、何のために部活に出ているかわからない……。

 1年は部活中も、先輩とすれ違うたびにお辞儀をしなくてはならず、部活が終わる頃には、緊張で肩や首が凝り固まっていた。そんな状況に置かれた1年は、部活が16時半に終わる伝統を歓迎した。もっと練習したい凪には不満だったが、部長の熊倉が音楽室と部室を施錠しなくてはならないので、残って練習できる雰囲気ではない。学校の楽器は持ち出せないので、家で練習することもできず、煮え切らない日々が続いていた。

 顧問はめったに顔を出さなかった。松山まつやまという年配の音楽教諭が長年顧問をしているが、教務主任で多忙な彼女は部長を通して指示を出すか、月に1度ほど覗きに来るだけで、合奏の指揮をするのは演奏会直前だけだという。その罪滅ぼしなのか、校長や教育委員会に顔が利く彼女は、予算をたくさん調達してきて、高価な楽器を揃えてくれた。めったに顔を出さなくても、そこにいるだけで安心させてくれる肝っ玉母さんタイプの彼女は部員から慕われていた。凪は口にこそ出さなかったが、彼女に好感が持てなかった。恣意的な伝統で運営される部を放置し、意欲のある部員が練習できない環境を作っている張本人に思えた。

 様々な不満はあったが、凪は先輩に嫌われて部活に出にくくなり、トランペットを吹けなくなるのが嫌で、ひたすら小さくなっていた。自分達の代になったら思いきり練習できる環境にしたいと切望し、ソロを吹く日を夢見て練習していた。

 凪は良く言えば真面目で辛抱強く、悪く言えば気が小さくて周囲に流されやすい。そのくせ見栄っ張りで、周囲に助けを求めるのを嫌うことが彼女を生きづらくしていた。生来の口下手で人付き合いに不器用な凪は、小学校の頃から仲間外れにされることがあった。だが凪は、家族や担任に言わずに耐えた。いっそのこと、登校拒否をしてしまえば楽かもしれない。だが、その一線を超えたら「普通の子」としてクラスに復帰できず、「可哀想な子」として、腫れ物に触るように扱われる。そんな自分が家族や友人、好きな男の子の目にどう映るかと思うと耐えられなかった。嵐が過ぎ去るまでやり過ごせば、やがて太陽が顔を出すように、凪はいつか状況が変わると信じて耐えてきた。もっとも、凪のように辛抱強くなくても、1年の間は先輩に有利な「伝統」に従うことを余儀なくされる。凪たちがそれを思い知らされるのに時間はかからなかった。



 凪たちが正式に入部した3日後、音楽室と部室をつなぐドアが、先輩の手で死人も目覚めるほどの音で閉められた。窓ガラスがぴりっと震え、第2音楽室に残された1年はびくっと肩をすくめた。部室からは、先輩が何やら相談する声が聞こえてきた。それが止むと、部長の熊倉が静かにドアを開け、1年は全員部室に入るようにと抑揚のない声で指示した。尻込みした1年は誰が最初に入るかで譲り合い、一悶着した後、不安げな面持ちでぞろぞろと部室に入った。

 部室の中では、2年生の先輩が左右に設置されたロッカーの上に腰掛け、1年生に敵意に満ちた目を向けていた。凪はその光景にぎょっとして足が竦んだ。10畳ほどの部室に30人以上が詰め込まれているので、空気は重く澱んでいる。緊張して立っている1年が、いつ貧血で倒れてもおかしくなかった。

 部長の熊倉は腕組みをして1年の前に立つと、慇懃無礼に言った。
「これから一緒にやっていく皆さんに、覚えておいてほしいことがあるので、集まっていただきました」
「長くなるかもしれないから、気分が悪かったら床に座っていいからね」安西が明るい声で言い添えた。 

 1年を睨みつけながら手前の椅子に座っていたトロンボーンの武田たけだが、長い脚を組みかえ、威圧感を漂わせて話しだした。

「中学では、先輩と後輩の関係をしっかりしてほしいんだよね。まず、先輩には敬語を使うのが原則。小学校のときはタメ口で話していたかもしれないけど、もうやめてね。知ってるとは思うけど、先輩とすれ違ったときはお辞儀するんだよ。それから、1年は部活に来たら、全員で音楽室の机を後ろに運んで、椅子を合奏の配置にしておいてね。今日見てたら、部活に来たのに、おしゃべりをしていて机を運ばなかった人がいたよ。あとさ、先輩の楽器と譜面、譜面台を出すのも1年がやるんだよ。部活が終わったら先輩の楽器を片付けて、机や椅子は元の位置に戻してね。私達も1年のときにやってきたことだから。わかるよねっ?」

 武田が射るような視線を向けると、1年は慄き、怯えた表情で肯いた。武田の視線が、無邪気にタメ口で先輩に話しかけていた打楽器の裕美ゆみの前で止まり、「ここは小学校じゃないんだよ!」と怒鳴りつけた。    

  裕美の小学生っぽさが抜けない赤ら顔がくしゃっと歪み、涙と鼻水が流れだした。2年の数名が、裕美の鼻水を大声で笑い、裕美は屈辱でますます涙が止まらなくなった。


 ロッカーの上で胡座をかいていたトランペットの桐原が、粘り気のある口調で引き継いだ。

「服装や髪型もちゃんとしてもらわないとねー。わかってると思うけど、1年がしちゃいけない服装と髪型があるんだよ。1年のうちは三つ編みとか編み込みしちゃダメだからね。ゴムの色は黒、茶、紺で、耳より上でしばらないでね。体育着のチャックは上から指3本分だけ開けて、ズボンの裾はツメしちゃだめだよ。私達も、1年のときはそうしてたから」

 桐原は威圧感を与えるために、ゆっくりと1人1人を睨みつけた。その視線が両耳より少し上で髪を束ねている酒井さかいの前で止まった。

「酒井さん、しばる位置が高いよ! 今すぐ、直して!」
 酒井が長い睫毛に縁どられた瞳で睨み返すと、桐原は一瞬ひるんだが、すぐに酒井を睨み返した。静まり帰った部室で、全員の視線が2人に集まった。張りつめた空気の中、凪は掛け時計の秒針が時を刻む音が、いつもの何倍も大きな音で迫ってくる息苦しさに耐えた。

「さっさと直しなよ! 自分でできないなら、手ぇ出すよ」       武田が空気を切り裂くような声で怒鳴った。

 薫が「酒井ちゃん……」と蒼い顔で酒井の腕をつついた。酒井は整いすぎた顔立ちのせいでどうしても人目を引く。堂々とした物腰も手伝い、真っ先に先輩に目をつけられた。フルート希望だった彼女は、先輩に蛇蝎のごとく嫌われ、テューバにまわされた。納得できなかった彼女は、先輩にくってかかり、散々締め上げられたばかりだった。同期の懇願するような視線を前に、酒井は憮然とした顔で髪をほどき、耳より下で結び直した。この態度が原因で、酒井に対する風当たりがますます強くなるのは予想できた。

「それからさぁ、制服の前ボタンは開けて着ちゃだめだよ。スカートも短くしないでね」                             武田や桐原とつるんでいるフルートの前原まえはらが言い添えた。

 それからしばらく、履いてはいけないスニーカーのブランド、楽器ケースや通学カバンにキーホルダーをつけたり、シールを貼ってはいけないことなど、禁止事項が一方的に通告された。

 凪は、誰かが疑問の声を上げないかと思った。常識で考えれば、先輩が理不尽なことを言っているのは明らかだった。敬語は当然としても、服装や髪型まで指図されるのは納得できない。1人くらい、「服装や髪型が先輩への敬意と関係があるのですか?」くらい言う子がいてもいい。

 きっと先輩たちは、自分たちも先輩に言われてそうしてきたという以上の答を持たない。おかしいと思う子はきっといるし、過去にもいたはずだ。だが、言う勇気がないまま受け入れてしまったのだろう。今の自分のように……。

 凪は、いま自分が悪しき伝統の継承に無言で加担してしまった居心地の悪さを全身で感じていた。同時に、自分が嫌だったことを後輩に押し付ける進歩のない先輩を心底軽蔑した。
 

 2年が一通り言い終えると、部長の熊倉がぎこちない笑みをつくり、いつもより明るい声でしめた。

「では、そろそろ終わりにしましょうか。こんなところに、遅くまで閉じ込めちゃってごめんね。暗くなってきたので気をつけて帰ってね」


 解放された1年は、誰からともなく、音楽室から離れた1年生の教室に集まった。凪に「大丈夫?」と尋ねられた裕美は、緊張が解けたのか、再び悲痛な声を上げて泣き出した。凪は裕美の子供っぽさを軽蔑しながらも、これから続く陰鬱な日々を思うと、彼女のように大泣きしたい気分だった。

「あー、やってらんない! 酒井ちゃんが髪しばってた位置、耳より少し下だったよねー」ホルンの範子のりこが気まずい空気を破るように大声を出した。
「酒井ちゃん、今度何か言われたら、みんなで言い返そうよ」
 

 酒井を取り囲んだ仲間が大袈裟に同情した。だが、酒井の顔には冷ややかな笑みが浮かんでいた。

「みんな、威勢のいいこと言ってるけど、明日から先輩に気に入られるように振舞うと思うよ」

 凪は酒井の言葉にぎくっとしたのは自分だけではないと思った。彼女の言う通り、自分も含めて皆、明日から少しでも先輩に気に入られるように振舞うに違いない。だが、そう言う酒井だって、彼女らしくない。小学生の頃の彼女は、理に適わないことを受け入れる子ではなかったのに、先輩の脅しに屈して髪型を直してしまった。

 酒井の言った通り、次の日から、1年は率先して先輩の楽器を出し入れし、丁寧すぎるほど丁寧にお辞儀をした。その横顔には、怯えと諦めの混じった複雑な表情が張り付いていた。先輩たちは、相変わらず部室にこもっておしゃべりをしていた。黄色い声を上げ、部室と音楽室を走り回り、鬼ごっこに興じる先輩もいる。

 部長の熊倉だけは、基礎練習からしっかりやっていたが、他の先輩に練習しろと注意することはなく、鍵の開閉、部員の出席確認、松山との連絡など必要最低限の仕事を淡々とこなしていた。凪は、こんな日々がずっと続くのだろうと思い、いつしかそれを受け入れていた。