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連鎖 4-(4)  最終話

 気を取り直した凪は、入部したての1年生が練習しやすい環境をつくることに注力しようと決めた。この時期に、先輩が怖くて部活が嫌になるとサボり癖がつく。特に、希望の楽器に決まらなかった子は要注意だ。

 凪は授業が終わると第2音楽室に直行した。だらだらとおしゃべりをしている1年を促して、部長自ら机を後ろに運び、椅子を並べた。その合間に、できるだけ彼女たちに声をかけ、困ったことはないかと尋ねた。トランペットに配属された2人の1年とも、話しやすい関係をつくることに心を砕いた。

 凪は自分の練習の合間を縫って、各楽器のパート練習を見て回ることも忘れなかった。2年がおしゃべりをしていて、1年が練習しにくい環境になっていないかは、特に気を配った。パート練習は特別な事情がない限り、楽器ごとに別の教室で行うのが原則だ。だが、範子たちは、おしゃべりをしたいがために、ホルン、トロンボーン、ユーフォニューム、チューバが一緒に練習していた。楽器を置き、おしゃべりに花を咲かせる2年の後ろで、1年が楽器を持って体を固くして座っていた。

 そんな光景を見ると、凪は「さっきから、楽器の音がしないよ~」とおどけながら入っていき、練習に戻らせた。

 他の楽器とパート練習に行き、おしゃべりをするのは先輩が残した悪習だった。凪は合奏でチェックしたい部分があるなど特別な理由がない限り、パート練習は同じ楽器のメンバーと行くことをルールにした。

 そして、先輩のように部室にこもっておしゃべりをするのが習慣にならないよう、部室を頻繁に覗き、溜まっている同級生に「練習しようよ」と声をかけて音楽室やパート練習の教室に戻した。

 苦楽を共にしてきた同級生に注意をするのは勇気が必要で、心が痛む。だが、彼女たちはわかってくれるだろうと心のどこかで甘えていた。


 部活終了後、凪は顧問の松山の指示で、職員室で新しい曲の楽譜をコピーし、部室に戻った。ドアノブに手をかけようとすると、範子たち同級生の声が聞こえてきた。

「さっき凪に、先輩がおしゃべりしてると、1年が気を遣って練習できないから、気をつけてって言われちゃった」

「私も部室から追い出された。あの子、1人で張り切ってるよね。そもそも、何であんな静かな子が票を集めたわけ?」

「凪は先輩の票で部長になったんだよ。大人しくて真面目な凪は、先輩にうけたんだよ。熊倉先輩が選ばれたのと同じ」

「2年の票なら、絶対範子のほうが取ったと思う。2年の人数が少ないから、先輩に人気がある子には適わないんだよ。大人しくて真面目なだけで選ばれちゃうのもどうかと思うよ。凪は変に張り切ってるし、うざいったらありゃしない」

「凪が裏校則をどうにかしたいのはわかるよ。でも、何で楽器の出し入れとお辞儀にこだわって、服装とか髪型は言わないの? 凪が許容できるものだけ解禁して、1年に恩を売るつもりなのかね」
 

 凪は怒りに任せて勢いよく部室のドアを開けた。精一杯の虚勢をはって凛とした表情をつくり、何事もなかったように「お疲れ」と言って、楽譜を棚にしまった。

 範子は、ばつが悪そうな顔で、「お先に」と仲間を促して出て行った。

 範子が叩きつけるように閉めたドアの音が胸に刺さる。凪は誰もいない部室にへたり込み、壁に背を預けて足を投げ出した。溜まっていた疲労がどっと押し寄せ、指一本動かすのも億劫だった。

 ここにへたりこんだ夏の日が不意に脳裡をかすめた。あのとき助けてくれた香川はもういない……。凪は落書きの目立つ天井を仰いで涙を堪えた。

 同級生の言葉が胸に木霊する。言われたことが胸に刺さったのは、それが的を射ていたからだ。服装や髪型を自由にした1年を見れば頭にくる。だから自分は、楽器の出し入れやお辞儀など、自分の許容範囲でしか提案できなかった……。

 はっきり言って、今年入部した15人の1年生には好感が持てない。希望の楽器になれなかったことを引きずったり、先輩が怖いという理由で、部活をサボり気味の子が多い。同級生から、1年が練習に来ないので指導ができないという愚痴を聞いている。人数が少ない部なので、早く戦力になってほしいと思い、部活終了後の練習を許可したが、残る子はほとんどいない。

 部長という立場にいる以上、嫌われ役を務めなくてはいけないのは十分に理解している。だが、苦楽を共にした同級生を敵に回してまで、不真面目な1年を守る意味があるのだろうか……。余計なことをせず、熊倉のように無難に1年務めようかという思いが胸を過った。

 だが、香川のくれた言葉を思い出し、あるべき姿のためにもう少し戦ってみようと自分を奮い立たせた。


 翌朝、凪は昨日のショックを引きずり、寝不足の頭痛に悩まされながら学校の廊下を歩いていた。教室へ向かう途中、吹奏楽部の1年生3人を追い越すとき、「おはよう」と声をかけた。彼女たちが自分に「おはようございます」とお辞儀をするものと思い、軽くお辞儀をして追い越した。

 先を歩いていると、後輩のひそひそ声が耳に入った。朝の静かな廊下では、小声でも予想以上に反響する。

「私まだ、お辞儀してないよ」
「あの先輩、丁寧すぎて何か変だよね」

 凪は電気に撃たれたように足を止めた。自分を支えてきた糸が、ぷつんと切れるのがわかった。

 後輩に去年の自分のような窮屈な思いをしてほしくなかった。だからこそ、同級生を敵にまわしてまで、1年が練習しやすい環境をつくろうと心を砕いてきたのではないか……。それなのに、何でこんな不快な思いをしなくてはならないのか。

 もう何もかもが虚しくなった。

「何?」

 凪の怒気を帯びた低い声が廊下に響いた。3人は、まずいと目配せした。凪と目が合ってしまった1人がびくっと身を竦めた。

 凪は怒りをたたえた目で彼女を睨みつけ、青白い顔が恐怖で引きつるのをゆっくりと観察した。


 先輩がつないできた鎖に、自分が新たな鎖をつなぐ金属音がはっきりと聞こえた。



(完)