連鎖 2-(1)
ドー、レー、ミー……。スネアドラムが刻むリズムと管楽器が奏でる音階が、朝の清々しい空気を震わせる。窓の向こうの山並みには、ほんのり霞がかかっていた。
第2音楽室では、若い男性教諭が歩き回り、部員の楽器の持ち方や姿勢を根気強く直していた。ここ数日、音楽室では毎朝7時半から、スネアドラムが刻む拍に合わせ、管楽器が音階を8拍ずつ伸ばすロングトーンが繰り返されていた。
6月、吹奏楽部に大きな衝撃が走った。長年顧問を務めてきた松山が、持病の肝炎を悪化させ、治療のために休職することになった。後任には、松山の強い意向で、合唱部の顧問を務めている若い音楽教諭が就いた。
凪は、香川譲治という教諭を初めて見たときの鮮烈な印象を思い出した。入学して最初の学年朝礼で、各科目を担当する教諭が壇上で挨拶した。壇上に立った彼には、周囲を圧倒する存在感があった。180センチを優に超える長身に、日本人離れした彫りの深い顔立ちで、細い銀縁眼鏡と尖った顎が知的な色を添えていた。声は深みのあるバリトンで、物腰が落ち着いているせいか、29歳という年齢よりも上に見えた。彼のすぐ後に、上から下までブランド物で固めた新卒教諭が壇上に立ったが、凪は彼を心底気の毒に思った。香川の存在感の前には、よほどの人物でなければ小物に見えてしまう。その新卒教諭も、高価な服を着こなせず、服に着られている軽薄な若造にしか見えなかった。
女生徒は香川に色めき立ち、「渋くていいじゃん」という小声があがった。凪は彼を食い入るように観察しながら、彼が放つ目力と老成した物腰は、周囲とは一味違う経験を経て獲得されたと思わずにいられなかった。
その姿を思い出し、凪は香川なら部の空気を一新してくれるのではと密かに胸を高鳴らせた。
香川が初めて部にやってきた日、松山時代を満喫してきた2年生は、伝統をひっくり返されては堪らないと敵意に満ちた目で待ち構えていた。ただでさえ蒸し暑い音楽室は、女の熱気でむせかえりそうだった。先輩たちの会話を聞いていた凪は、彼が初端から苦戦することが伺えた。
「あの先生、合唱部で発声練習から、みっちりやってるらしいよ。合唱部の子が、めちゃくちゃきついって言ってた。あの先生が顧問になってから、先生目当ての部員が増えて、コンクールの成績も上がったんだって」
「香川先生、歌もピアノもすごく上手いらしいね。授業でシューベルトの魔王を弾き歌いしたんだって」
「あまりすごくて教室がシーンとしちゃったんだってね。でも、この部で基礎練からスパルタでやられたらたまんないよね」
「でもさ、あの先生、新任でT中に赴任してたった1年で、コンクールで万年銅賞だった吹奏楽部に金賞をとらせた人だよ。絶対、厳しくやるよ」
「知ってる。それに目を付けた松山先生が、うちに引っ張ったって噂。松山先生、自分の体がもたないことわかってたのかね……」
「だけど、私達、今まで気楽にやってきたんだから、いきなり、コンクールで金賞取るぞーとか言われてもねぇ」
「そうだよ。私達、吹奏楽に青春を燃やすために、この部に入ったわけじゃないし。やつが何言っても、今までと同じにやろうよ!」
濃紺のポロシャツにベージュのチノパン姿の香川が音楽室に入ってくると、黄色い声のおしゃべりが止み、敵意に満ちた視線が彼に集まった。初めて香川を近くで観察した凪は、ポロシャツの下で盛り上がる二の腕の筋肉から、体を鍛え抜いている人だと思った。
凪はこの雰囲気のなか、彼がどう出るか、お手並み拝見という視線で観察を続けた。彼は女集団の視線に動じず、静かだが力のこもった口調で語った。
「松山先生は、皆に良い音を出してほしくて、最高の楽器を揃えてくれた。市内のどこの中学を探しても、ここまでの楽器を揃えている部はない。私は先生から、その楽器に見合う演奏をさせてほしいと言われた。私と松山先生では、やり方が違うかもしれないけれど、一緒に最高の演奏をしたい思いは同じだ。皆の力を引き出せるように頑張るので、ついてきてほしい」
凪は彼が松山の思いを継ぐことを前面に出して部員の心を掴もうとしたのを見て、この人はできると直感した。
香川は最初に楽器の音程を合わせるチューニングを指示した。部員は顔を見合わせた。この部にはチューニングの習慣がなく、チューナーは1つもない。香川の目力に圧され、クラリネットのパートリーダーの熊倉がB♭の音を出し、全員がそれに合わせて音を出した。しかし、合っているかわからないまま各自が音を出しているだけだった。
黙って見ていた香川は、まず全員に音を出すのをやめさせた。そして、一人一人の音を電子ピアノと合わせる手順で進めていった。チューニングに慣れない部員が音を合わせるには、途轍もなく時間がかかる。最初は神妙な顔で座っていた部員も、10分も経つと退屈して居眠りや私語を始めた。いつの間にか窓から風が入らなくなり、サウナ状態になったことも、部員を苛立たせた。香川は首筋の汗を拭いながら、根気よく1人1人に指示を出していた。途中、どうしても音が合わないことに疑問を持った香川が運指を確認すると、先輩から伝わった指使いが間違っていたと判明する笑い話もあった。
1時間半後に、ようやくチューニングが終わった頃には、部員の不満は爆発寸前で、射るような視線が香川に向けられていた。これから、まだ何かやるのはとても許されない雰囲気だった。2年は聞えよがしに文句を言い、香川が止めるのを聞かず、どすどすと派手な足音を立てて出て行く者もいた。1年も、「塾があるので」、「ピアノがあるので」と先輩に申し出て、櫛の歯が欠けるように去っていった。
香川は残った部員を静まらせると、全員の音を聞かせてもらったが、腹式呼吸とロングトーンが不十分なので音が安定せず、一度合わせてもすぐにずれてしまうと指摘した。当面は、毎朝7時半から、管楽器は8拍のロングトーン、打楽器は一定のリズムで叩けるようになるための練習を行うと有無を言わさぬ口調で言った。音楽室は不満で騒然となった。香川は意に介さず、明朝7時半にと言い残して出て行った。
「何なのあいつ! 朝練なんてありえない。2年全員でボイコットしよう。1年生も嫌なら出なくていいよ!」
「あの外人みたいなツラ、毎日見せられるの耐えられない!」
この日から、彼にはその容姿を揶揄した「ガイジン」という渾名がつき、2年生の有志は「ガイジン排斥運動!」と気勢をあげた。彼女たちは、香川のせいで部がめちゃくちゃになってしまうと教頭に告げ口を始めた。願わくは彼を追い出し、臨時採用された女性の音楽教諭に形だけの顧問になってもらうことだった。
凪は「伝統 v s香川」の戦いの火蓋が切って落とされたことを感じ取り、背筋がぞくっとした。