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連鎖 4-(2)

 山々が、咲き始めた桜でぽつぽつと明るくなったことが遠目にもわかる。校庭の桜は葉桜に変わり始めていた。凪は中途半端な桜が厭わしく、さっさと若葉になってしまえと思った。

 凪は新しいクラスに慣れる忙しさで、心の穴を埋めようと努めていたが、ふとした隙間に、香川の思い出が蘇ってくるのが辛かった。

 部活に行けば、3年に進級した先輩が以前のように部室に滞留している。2年になった凪たちは、今までのように音楽室の机を後ろに寄せ、椅子を合奏の配置にして、先輩の楽器を出す。

 新学期から、顧問だった松山が復職したが、以前のように、部長の熊倉を通して指示を出すだけで、部にはほとんど姿を見せない。先輩たちはすぐに香川の遺産である朝練を廃止し、腹筋やマラソンも自然消滅した。「鉄腕アトム」は再び練習曲に返り咲いた。

 凪たちの髪型と服装は1年のときと変わらない。2年になって、すぐに髪型や服装を自由にすると、たちまち先輩に締められると聞いた。部の先輩が、そろそろ三つ編みをしてもいいよ、ツメをしていいよと1つずつ解禁していくのが伝統だという。



 凪が部室から自分の楽器と譜面を出そうと、ロッカーに手を伸ばしたとき、3年生でトロンボーンの武田が部室に飛び込んできてまくし立てた。

「外に見学の1年がぞろぞろ来てるけど、色ゴムしてるのも、ポニーテールもいる!」

「マジで? 見てくる!」

 3年は、どやどやと廊下に出ていった。凪も同級生と一緒に、ちらりと覗いた。ざっと見ただけでも、裏校則に違反している子が何人も目についた。色ゴム、ポニーテール、三つ編み、ヘアバンド、制服のジャケットのボタンを開けている子もいる……。いくら何でも大胆すぎないか。今年の1年には裏校則の情報が伝わっていないのだろうか? 

 凪はいつの間にか先輩目線で1年を見ている自分に気づいた。裏校則を守り、神経をすり減らした日々を思うと、どうしても苛立ちの感情が湧きあがってきてしまう。

 凪はそんな自分に戸惑った。初めて裏校則を押し付けた先輩を責められないと思い、なぜ下らない裏校則が受け継がれてきたかが身をもってわかった……。



 桐原と東は、パート練習の教室で1年への不満を爆発させた。

「今年の1年、何なの! 色ゴムとかポニーテールしてるし! なめるのもいい加減にしてほしいよね!」

 桐原は浅黒い顔を紅潮させてまくしたてた。「さっき、一年にタメ口で話しかけられちゃったよ。小学校のクラブで同じだった子だけど、あのときのノリで来るなって感じ!」

 トロンボーンの武田が入ってきて、桐原と東を教室のベランダに誘い、何やら耳打ちした。凪は悪口を言われているのではと胃がきりきり痛んだ。

 武田が出て行くと、2人は軽く頷き合い、凪が座っている席の前に座った。

「橘さん、2年になったんだからさ、ツメしていいよ。髪型も三つ編みとかポニーテールにしていいからね。あと、部活のときは、もうお辞儀しなくていいよ」
「これから、橘さんのこと凪ちゃんって呼ぶね。私達のことは、東先輩と桐原先輩じゃなくて、美琴みこと先輩と和佳子わかこ先輩でいいからね」

 凪は2人の豹変ぶりに、どう反応していいかわからなかった。2人は困惑する凪の足元にしゃがみこむと、「ツメ、やってあげるね」と凪のズボンの裾をつまんで足首に巻きつけるようにし、そのまま2回ほど折り返した。


 パート練習が終わり音楽室に引き上げると、トランペット以外でも2年に服装や髪形の自由が許されたらしく、みなツメや三つ編みをして、ぎこちなさを隠せない顔を見合わせていた。

 凪が後に寄せた机を元の位置に戻しているとき、長い髪をポニーテールにした酒井がすっと近寄ってきて耳打ちした。1年の服装と態度に、怒り心頭に達した先輩たちが、彼女たちを締める前に、2年の服装や髪型を解禁し、ファーストネームで呼ぶことにしたという。

 昨年の先輩は、服装も髪型も夏休み前まで解禁されなかったので、異例の早さだ。今年の1年が、あまりにもひどすぎるので、従順な2年への好意が芽生えたのだろうか。だが、先輩たちは一度解禁しておいても、やはり感情的に受け入れられず、また締め付けが起こる可能性が高い。他の部の先輩が吹奏楽部の先輩に文句を言い、揺り戻しが起こらないとも言えない。凪は、まだ今までのままにしたほうが無難だと思った。

 音楽室の隅では、ポニーテールをした1年が、ハンカチを顔にあててしくしく泣いていた。

「あの子、どうしたの?」凪は椅子を戻しながら、酒井に小声で尋ねた。

「小学校のときに仲良かった先輩に、ため口で呼びかけて、どうしてもフルートになりたいって言ったら、嫌み言われて泣いちゃったらしいよ」

  見学に来た1年は、2年が机を運んで並べ直すと、誰からともなく音楽室の後方に移動し、所在なさそうに横一列に並んで立っていた。

 3年は同胞を迎え入れるような雰囲気で、2年全員を部室に入れた。2年が入ると、桐原が1年を威圧するかのように睨み、部室のドアを勢いよく閉めた。

 死人も目覚めるような音にびくっとした凪の脳裡に、1年前の記憶が鮮やかに浮かんだ。昨年と違うのは、自分が閉められた扉の内側にいることだ。

「もう、我慢できない! 今日言おうよ!」武田が爆発した。
「まだ部活見学が解禁された初日だよ。最初にきついこと言って、入部者が減っちゃうのは良くないんじゃない? もう少し様子見ようよ」

 部長の熊倉が諌めたが、武田たちの怒りは抑まらなかった。

「仮入部期間終わるまで、ポニーテール、三つ編み、編み込み、色ゴム、ヘアバンドされて、タメ口で話されるの耐えられる? 私は絶対無理! 他の部の友達からも、ブラバンの1年、どうにかしてって言われるよ」
「私も耐えられない。私たちも今の2年生も、最初からもっとちゃんとしてたよ。あれじゃ、どこの部に行っても言われるよ。うちが言って入部者が減っても、それはそれでいいじゃん!」

 熊倉は何も言わずに引き下がった。

「2年生はもう少し奥に入ってね、正面に1年入れるから」

 前原や武田の誘導で、3年は昨年と同じようにロッカーの上に座り、2年は床に体育座りをした。

 今年は3年もいるので、中に呼ばれた1年がぞろぞろ入ってくると昨年以上に空気が悪くなった。

 凪は先輩の敵意に満ちた目に慄く1年を見て、去年の自分たちもこうだったと思いを馳せた。あのときの先輩と同じことをしていることに、気がとがめたが、神経をすり減らし続けた1年を思うと、自分はこちら側にいる権利があると言い聞かせた。


「今日は見に来てくれてありがとう。来てもらったその日に悪いけれど、少し考えてほしいことがあります」部長の熊倉が、いつもは表情に乏しいのっぺりした顔に、柔和な笑みをはりつけて切り出した。


「まず最初に……、入学したばかりで、わからないかもしれないけれど、中学に入ったら先輩とは敬語で話してね。今のままじゃ、先輩に失礼だよ。その他にも、いろいろ守ってほしいことがあるから、集まってもらったの」 副部長の安西が満面の笑顔で、いつもより少しぎこちない口調で言い添えた。

 2人の柔らかい物腰に、1年の緊張は若干ほぐれたように見えたが、それに続いた前原の苛立ちを隠さない口調に再びびくりと体を固くした。

「1年のうちは髪型にきまりがあるんだよ。三つ編みや編み込み、黒、茶、紺以外の色ゴムはだめだよ。ピンは黒で、バレッタとか飾りゴム、リボン、ヘアバンドもダメ。肩につく髪は、耳より下でしばってね!」

 三つ編みやポニーテールをしていた1年は血の気の引いた顔で俯いた。

「制服の前ボタンはしっかり留めてね。スカートも短くしちゃだめだよ。今、見てると結構スカート短い人いるよ!」桐原が怒号を飛ばした。

「体育着のチャックは、上から指3本分だけ開けるんだよ。ズボンはツメしちゃだめだからね。それから、靴は黒か紺のスニーカーにしてね。靴下は白い短いの。柄とかブランドのロゴが入ってるのはやめてね。今、できてない人、自分でわかってるよねっ? 帰る前に直さないと、他の先輩にも締められるよ!」

「それから、先輩にはお辞儀をしてね。特に部活中!」武田が怒気を含んだ声で言い継ぎ、立っている1年を睨め回した。

「あの……」三つ編みをした負けん気の強そうな1年が口を挟んだ。

「どうして、先輩に服装とか髪型とかまで指図されるのかわかりません。お辞儀は絶対に必要なんですか? 普通に挨拶するだけじゃいけないんですか?」

 それに加勢するように、ショートカットにヘアーバンドをした優等生タイプの1年が尋ねた。

「校則に書いてあるんですか? 私の知る限りでは、そんなこと書いてありませんでした」

 そこには、裏校則に思考を支配されていない純粋な勇ましさがあった。だが、凪はこんな質問をしてしまった彼女たちの学校生活がどうなるかがわかるだけに複雑だった。

 1年全員が答えを聞きたそうな顔を向けていた。昨年の自分も、心の中で彼女と同じことを叫んでいた。今、自分たちには、私たちもやってきたことだから、後輩にも従ってほしいという以上の答えはない。

「それが先輩への礼儀なの! 私達も、ここにいる2年生も1年のうちはそうしてきたの。2年生は今日やっと三つ編みとかができるようになったんだよ。私たちは夏休みまでできなかった。その前の先輩は、文化祭終わるまでできなかった。今年の1年だけ、しないっていうのはおかしいでしょっ!!」

 武田が廊下の端まで聞こえるほどの怒号を轟かせた。2人の1年は、怒号に慄き、涙で顔を歪ませて俯いた。純粋な疑問が、伝統に支配された思考にねじ伏せられた瞬間だった。

 数人の1年が、はやくも先輩に媚びを売るように、頻りに頷いていた。編み込みやポニーテールをほどきはじめた1年もちらほら見られた。


 それから30分ほど、3年は、部活に来たら机を後ろに運んで椅子を合奏の配置にすること、先輩の楽器の出し入れをすることなどをだらだら列挙し続けた。

 最後に安西が畳み掛けるように言った。「こういうこと言われて嫌だから、吹奏楽部に入るのをやめちゃってもいいけど、このままじゃ、どこの部に行っても同じことを言われると思うよ。今のことを守ってくれたら、楽しくやっていけるから、よかったら明日も来てね」

「こんな狭いところに、長時間閉じ込めちゃってごめんね。気を付けて帰ってね。今日は来てくれてありがとう。よかったら、明日も来てください」 部長の熊倉が穏やかにしめた。

 解放された1年は、さようならと消え入りそうな声で言い、ぞろぞろと部室を出て行った。凪には彼女たちが、空いた教室でやりきれない思いを爆発させているのが目に見えるようだった。

 明日から1年は、昨年の自分たちのように怯えて裏校則に従い、先輩の顔色を伺いながら小さくなって過ごすだろう。凪は裏校則が連鎖のように引き継がれていく瞬間を冷めた眼で観察していた。