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三角公園 第4章 (3)

 エアコンの低いうなりも、喧しい蝉の声も、潮が引くように遠ざかっていった。桜子の唇が、毒を放つように禍々しく動いていた。

「どうして、何でそうなったの……?」
 私は動揺を隠す余裕などなく、呂律のまわらない口で尋ねた。
「去年、パレスチナで医療ボランティアして、子供に感謝されたとき、先生に御礼を言いたい思いがどうしようもなく高まって、手紙を書いたの。それからメールするようになって」
「ちょっと待って。桜子、先生の住所知ってたんだ……?」
「アメリカに行く前に教えてもらったけど、どうして?」

 記憶に一撃が加えられ、視界が揺らいだ。
 あのとき、先生は私が年賀状を出すことさえ拒み、冷酷に突き放した。それなのに、桜子には住所を教えていた。先生の前で、桜子と私は対等だったはずだ……! 

「パレスチナから日本に飛んで、都内で会ったの。話しているうちに、流れでホテルに。それから、アメリカに帰るまで何度か会って、その度に。帰国してから連絡取れなくなって、それっきり。メルアドも住所も変えられて、メールも手紙も届かなくなった……。それから、先生がずっと忘れられなくて、誰とも付き合ってない……。先生よりハイレベルな人は山ほどいるのに、彼の声が、言葉が、身体が忘れられないの! 先生を全身で覚えているの。幸せになった瑞穂ちゃんが羨ましいよ!」

「そう、なんだ……」
 目の前にある桜子の体に、先生の体が重なったと想像すると、不快感が入道雲のように湧きあがり、吐き気がしてきた。次々と生み出される桜子の言葉は、雑音のように私の体をすり抜け、意味を成さずに消えていった。

 6時を過ぎ、晴樹さんが来てくれた。
 彼は私が用意したビーフシチューを食べながら、桜子の話に耳を傾けていた。私は口を挟む気力が湧かず、桜子と彼が交わす言葉が自然に増えた。
「桜子さん、アラビア語できるんだ」
「うん。大学のときから勉強していて、ルームメイトがエジプト人だったから。パレスチナ自治区にある大学のサマープログラムも行ったよ。初めてパレスチナの土を踏んだ瞬間、すごく感動した」
「そうか、桜子さんには日本、パレスチナとイギリスの血が流れているんだもんね。感慨深いものがあったろうね」
「うん。祖父はイギリスとパレスチナのハーフ。イギリスの委任統治領だったパレスチナのエルサレムで、イギリス人の行政官の父と、キリスト教のアラブ人女性のあいだに生れたの。祖父の父は、イギリスに奥さんがいたけど、帰国するとき幼い祖父を連れていって、全寮制の学校に入れたの。肌の色が違う祖父は、イギリスで随分差別されたんだって。そんな祖父がカメラマンになって日本に来たとき、祖母と知りあったの。うちの曾祖父母は一時アメリカに出稼ぎに行っていたから、祖母はアメリカ生まれで、英語ぺらぺら。そんな縁で、日本で通訳を探していた祖父と知り合って、恋に落ちて結婚。父は終戦の年に生れたの」
「なるほどね。お祖父さんは、パレスチナに戻らなかったの?」
「祖母は、祖父の心は常にパレスチナにあったと言ってた。英国人の父親との関係が複雑だったから、母親や故郷への思いは格別だったみたい。だから、そこにイスラエルが建国されたことが、許せなかった。祖父はそのとき、祖母と父を日本に残して、パレスチナに行ってしまったの。エルサレムを追われた祖父の家族は、いつか帰ろうと家の鍵を持ったまま、ヨルダンに移住。英国籍の祖父はイスラエルで写真を撮り続けて、イスラエル軍の理不尽な暴力を訴え続けた。撮影中に、イスラエル軍の流れ弾に当たって死んだの」

「そう……。お祖父さんの撮った写真、残っているんでしょ?」
「うん。祖母が何枚か保存していたから。悲しい写真だとは思ったけど、祖父がそこに、どんな思いを込めたかはわからなかった。でも、エドワード・サイードを読んで、祖父の憤りがわかったの……」

「桜子さん、理系なのにサイード読んでるんだ」
「うん。高校の英語の先生に、私の祖父がパレスチナ人だって話したら、サイードを勧められたの。それ読んで、祖父が何に憤っていたか、よくわかった。私もパレスチナのために何かしたくて、去年、夏休みにパレスチナで活動している医療NGOでインターンしたの。現地の子供に感謝されたときは、人生で一番感動した。私に流れている祖父の血が騒いでた……」
「それがいま、桜子さんを動かしているんだね……」

 晴樹さんは、少し躊躇ったあと、静かに尋ねた。
「桜子さん、子供の頃、外見のことで嫌な思いしたんじゃない?」
「うん、幼稚園でも小学校でも、外人って言われていじめられたよ。中学では先輩に目をつけられたし。でも、これはうちでは宿命みたいなもの。祖母は、アメリカから日本に帰ってきたとき、日本語が下手で苛められた。父も外見のせいで苛められた。だから、私も仕方ないって、諦めてきたけどね……」
「桜子さん、アメリカに行って解放されたんじゃない? バックグラウンドが複雑な人なんて山ほどいるし、それは全然特別なことじゃない。在日コリアンの友達も、アメリカに来て自由になれたって言ってたよ」

 桜子は、ふっとリラックスした表情になり、眩しそうに晴樹さんを見た。
「うん。すごく楽になった。自分のルーツともじっくり向き合えて、誇りに思えるようになった。日本にいるときは、瑞穂ちゃんみたいな、主流というか、普通の日本人にならないとっていう強迫観念に捉われていたから……」
「俺は、アメリカに行って、日本人としてのアイデンティティを強めたけどね。いま、サンフランシスコどうなってるかな……。俺のいた頃と随分変わってるだろうな」
「一度来てよ。案内するよ」
 

 疎外感に耐えられなくなり、晴樹さんが差し入れてくれたワインをあおった。かっと全身が熱くなった。頭がぼうっとし、目を閉じると、絡みつく桜子と先生の裸体が浮かび、それが桜子と晴樹さんに変わった。

「瑞穂、どうかした? 具合悪いのか?」
「ちょっと、酔ったみたい」
「めずらしいな。瑞穂が酔うなんて」
「あ、もしかして、さっき私が余計な話しちゃったからかな?」
 桜子の無邪気な声が私を苛立たせた。

「余計な話?」晴樹さんが怪訝そうに尋ねた。
「私たち、高校のとき、同じ先生を好きだったの。その人と私が、少しだけ付き合ったけど、捨てられちゃった話……」
「桜子!」 
「それって、サイードを勧めた英語の先生?」
 晴樹さんは、内臓まで響くような低い声で尋ねた。
「え、菖蒲先生のこと知ってるの?」
「もう、その話はいいでしょ!」
 桜子は、私の剣幕に肩を竦めた。

 私は空になった皿をふらつく足でシンクに運び、仕切り直すように問いかけた。
「晴樹さん、シチューのおかわりは? 桜子、晴樹さんが買ってきてくれたケーキ食べる?」
「あ、俺、ごはんがあれば、かけて食いたい」
 晴樹さんが、空気を和らげるような声で応じてくれた。
「え~、カレーじゃなくてシチューだよぅ」桜子が口を挟んだ。
「俺。シチューはご飯にかけると決めてるの。パンより、ごはんのほうが美味いと思わない?」
「そっか、うん。日本人はご飯だよね」
「そういえば、桜子さん、大学では寮に住んでるんだよね。食事まずくない?」
「超まずい! パンもシリアルも糖分高いし、生活習慣病を製造してるとしか思えないよね~」
「でも、桜子さん、スリムだよね。俺、帰国したとき、今より10キロくらい太ってたよ。半年くらい、こんにゃく麺とか食べてダイエットしたけど」
「私、アメリカ行って半年で、7キロくらい太ったんだよ。これじゃいけないと思って、食事に気を遣って、ジム行って、体型を保つようにしてるよ」
 

 2人の声が、頭のなかで絡みあうように響き、気が狂いそうだった。私は、飲み物を買ってくると外に出た。晴樹さんは、危ないから自分が行くと言ったが、外の風に当たれば気分が良くなると言い張り、半ば強引に飛び出した。