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巡礼 7-(3)

「そんなあなたが、日本に行くきっかけになったのは?」

「高校を卒業した弟のケンが、私にあからさまな対抗心を燃やしてきたんだ。自分は私よりもうまく新たな市場を開拓できるし、新しい品種の導入もできると父に食い下がった。私は人に好かれる性格じゃなかったけど、ケンとは特にうまくいかなかった。彼は私がもらわれっ子だと知っていたから、私が父の片腕になったのが気にくわなかったんだ。
  その空気を察した養父母は、私が日本に行きたがっていることを知り、そうさせることにした。弟に家業を継がせるための形のいい追い出しだ。だが、私は学費を出してもらえることに感謝した。何だかんだ言っても、まだ若かった。毎日朝から晩まで畑を耕して、狭い人間関係のなかで一生を終わると思うと物足りなさを感じていた。日本に行けば、別の生き方ができると思った」


「日本に渡ったのは、何歳のときですか?」
「22歳。養父が県人会の集まりで日米学院という学校の話しを聞いてきて、私をそこに入れることになった」
「二世が大学に入る前に、日本の言語や文化、習慣を学ぶ学校ですね。広島出身の本願寺のお坊さんが、東京の中野に設立した施設で……」
 彼は都の知識に驚いたような顔を見せた。都は卒業論文でこの学院を調べ、咄嗟に知識が活用できたことが嬉しかった。


「横浜の港にミツが迎えに来て、中野の日米学院まで連れていってくれた。9年ぶりに再会したミツと私は、がっしりと抱き合った。ミツは驚くほど立派な青年になっていた。背が高く、映画俳優のようにハンサムで、日本語もぺらぺらだった。両親の広島弁とは違い、標準語に近い日本語を話していた」
「日本では、お兄さんと一緒に暮らしていたのですか?」
「いや、日米学院には日米ホームという個室の寮がついていた。井沢とは、そこで一緒だった。食事も出たから、生活の不自由はなかった。勉強は本当に大変だったけれど、二世の仲間と英語で話せるから言葉の不自由はなかった。アメリカ育ちの二世が、言葉も生活習慣も違う日本でやっていくのは並大抵の苦労ではなかった。日本に馴染めず、1年で帰って行く仲間もいた。徴兵が嫌だったり、日米関係が悪くなったので帰ったやつもいた」


「日本で暮らしたことで、アメリカ人としてのアイデンティティに変化はありましたか?」
「最初は、今までアメリカ式の教育を受けてきたから、日本精神を叩き込まれることに反発した。でも、私は子供の頃から米の飯を食べて、ほとんど日本人しかいないコミュニティで育ったので、小学校にあがるまでは日本語しか話せなかった。だから、直に日本人の血が反応して、教えられることを受け入れるようになった」
 アキラは暫し間を置いて言い継いだ。
「アメリカに帰る場所がある連中は良かった……。私は本当の親もいないし、養父母からも追い出されたようなもんだった。帰っても居場所がないので、日本で頑張ろうという思いは他のやつより強かったと思う」


 居場所を失ってアメリカに発った都には、帰る場所を喪失した彼の孤独が胸に迫った。都はそっと腕時計に目を落とした。1時間半が経過していた。都は手術をしたばかりの彼を気遣い、何回かに分けて話を聞けるよう、3日間滞在する予定でいた。都が「お疲れになったらいつでも言ってくださいね」と声をかけると、彼はぎろりと都を睨み「そのときは、こっちから言う」と鬱陶しそうに返された。


「私が日本に行ったのは、ミツの大学最後の年だった。明治大学の本科にいたミツは、広島出身の人がやっている下宿屋から通っていた。そこには菅井宮子すがい みやこさんという、広島育ちの若い女性が働いていた。二世の女の子と違って、小柄で細くて可愛かった。初めてミツの下宿を訪ねたときから、日本に来たばかりの私を心配して、困ったことがあったらいつでも頼ってほしいと気を使ってくれた」


 都は自分と同じ名前の人物が出たことで、彼に自分の名前を呼ばれているような居心地の悪さを覚えた。
「宮子さんは不幸な境遇の人だった。両親が借金を残して死んだので、遊郭に売られそうになったらしい。妹が1人いたので、彼女を養うためにも働かなくてはならなかった。父親の友人で、東京で下宿屋をやっていた人が、そんな彼女を不憫に思ったのか、遊郭ほどの金は出せないが自分のところで働かないかと勧めてくれたという。それから彼女は、下宿で働いて借金を返しながら、親戚に預けられた妹にも送金していた。自分も大変なのに、いつも明るくてきぱきしている人だった」


 彰は暫し間を置いて言い継いだ。
「私はすぐに彼女を好きになった。でも、ほどなく彼女はミツと気持ちが通じ合っているとわかった。彼女と会うときは、いつもミツと3人だった。彼女が休みをもらえる日に、3人でアメリカ映画を見に行ったり、鎌倉に行ったりした。だが、日本語が下手な私は会話に加われず、仲睦まじい2人の後をとぼとぼついて歩いた。ミツが気を使って英語で話してくれたり、宮子さんがゆっくりと日本語で話してくれたりしたが、プライドの高い私はそのたびに惨めになった。仲の良い2人を見せつけられ、子供のころ幾度となく味わったミツへの嫉妬が燃え上がった。ミツは大学を終え、しばらく日本にいたが、彼女を残してアメリカに帰ってしまった。自分が迎えに来るまで、彼女の力になってやってくれと私に頼んで……。彼女は妹に送金しなくてはならないし、ミツもアメリカで仕事に就かないと彼女と結婚できないし、仕方がないかもしれない。だが、私には、日本で仕事に就かなかったミツが身勝手に思えた」


 都は重い空気を打ち破るように話題を変えた。
「ところで、日本の親戚とは会いましたか?」
「実の親は早くに亡くなって、故郷に送金できなかったから、親戚は冷たかった。何度も手紙を出して、広島を訪ねてよいか聞いても返事が来なかった。父方の叔父が上京したとき1度食事をしたが、それっきりだった。日本語は下手だし、頼れる知り合いも1人もいないなかで、彼女の存在は心強かった。彼女は私のよくない日本語を直し、新しい言葉をたくさん教えてくれた。彼女には感謝していたが、はやく頼るだけの関係を脱して、男として見られたかった。
 彼女は、月に1度休みをもらえる日があるので、その日に遊びに来てほしいと言われた。ミツに似た私に会うことで、彼と会っている気分になっていたのだろう。彼女の眼差しは、いつも私のなかにミツの面影を探していた。私たちの共通の話題はミツのことだけなので、そればかり話していた。ミツが手紙で何て書いてきたかとか、彼と一緒に見た桜や蛍のこととか。私はまだ日本語で話すことに慣れなかったので、思ったことが言えず、もっぱら聞き役だった」


 そこまで話すと、彼は背もたれに寄りかかって目を閉じた。目の下の隈が目立ち、疲労が溜まってきたのがわかった。都は、今日はこれで切り上げようと提案した。だが、彼はそれを遮り、ベッドに横になって話させてもらうと言い張った。
 仕方なく都はベッド脇の椅子に掛け、枕元にレコーダーを置かせてもらった。
「1941年春、私は明治大学予科に入った。大学に入れて安心したけど、今まで英語を話す二世と勉強していたから、初めて日本人のなかでやっていくのは不安だった。外見は同じなのに日本語が変だから、同級生には変なやつに見えたらしい。親切なやつが多かったけれど、中には移民の倅と陰口をたたくやつもいた。東京でも二世を冷たい目で見る人がいたから、広島で中学に通ったミツはどれだけ苦労したかと思うよ。
 軍事教練の将校には、号令が理解できなくて随分怒られた。他にもついていけない二世がいたので、将校は二世のために特別訓練をしてくれた。幸い私は運動神経が良かったので、最終的にはよい成績を残せた。もちろん、勉強もきつかった。特に日本史や漢文は苦手だったので、夜遅くまで辞書をひきながら勉強した。剣道部か柔道部に入りたかったけど、落第しちゃ困るので諦めた」


「日米関係が悪くなって、特高に嫌な思いをさせられることはありませんでしたか?」
「私自身はあまりなかった。学院のまわりをうろうろしているのを見かけたくらいだ。困ったのは、アメリカの経済封鎖で手紙が届かなくなったこと。最初、宮子さんはミツの手紙が冷たくなったと相談してきた。そのうち、経済封鎖のせいで手紙が来なくなって、彼女はとても寂しがっていた。仕方ないこととはいえ、彼女を置いていった身勝手なミツに腹が立ったな」
 昔日(せきじつ)の怒りが蘇ったのか、彼の瞳に鋭い光が宿り、都をたじろがせた。
「だが、これを境に彼女と私の関係は変わり、私が彼女を慰める側になった。私は少しでも彼女の気持ちが軽くなればと、彼女の話を親身になって聞いた。ミツに似たところのある私の顔を見て、少しでも慰められるならそれでもよかった。ミツへの思いの100分の1でも、私に向いてくれたらと思った……」

 一息ついた彼は、口角に溜まった唾液の泡を手で拭った。都は兄の恋人に弟が思いを寄せるという構図に、自分と良、茜との関係が重なり、反射的に話をそらしていた。

「真珠湾攻撃のことは、どこでお聞きになりましたか?」
「あの日のことは覚えている。朝御飯のとき、院長先生が教えてくれた。皆大騒ぎで、どうなるのかと英語で不安げに話していた。最初は信じられなかったけど、院長先生が持ってきたラジオでニュースを聞いて、ああ本当なのかと思った。院長先生から、外では英語を使わないこと、登校してもいいけどできるだけ外出は控えろと言われた。ハワイ出身のやつらは、自分の家族が無事かと、いてもたってもいられない様子だった。私もミツや家族の顔が胸を過ぎったけれど、もうどうしようもなかった」
「アメリカからの送金が止まってしまって、生活が大変ではなかったですか」
「大学の授業料が大変だった。日米学院の先生が、英語の家庭教師の仕事を紹介してくれた。生活費を切り詰め、できる仕事は何でもしたが賄えなかった。大学を辞めるしかないと思っていたとき、井沢が、両親に頼んで私の学費を肩代わりしてくれたんだ。広島の親戚も頼れなかった私には本当にありがたかった」
「そのとき、国籍はどうなっていたのですか?」
「二重国籍。日本国籍を抜けたやつもいるけど、私は手続きがよくわからないからそのままだった」