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連鎖 4-(3)

 凪は香川が去ったことで、自分を駆り立てる熱いものが消えてしまったことに気づいていた。トランペットは好きなままだが、前のように気持ちが上がってこない。じきに先輩が部活に来なくなり、2人に気兼ねせずに練習できるようになる。そして、自分はトランペットに配属された後輩を引っ張っていかなければならないのに……。


 そんな凪に喝を入れたのは、新たに降ってきた責任だった。

 連休明けに行われた2、3年による投票で、凪が副部長に選ばれた。部長はその存在だけで周囲を楽しくするオーボエの絹江きぬえだった。だが、絹江は生徒会の書記を務めていて、週に1、2回しか部活にこない。そして、秋には生徒会長に立候補する予定だった。部活より生徒会に気持ちが傾いている絹江は、部長を凪に譲り、自分は副部長でいいと松山に申し出た。

 凪は先輩に嫌われていた自分が票を集めたことが腑に落ちなかった。帰り道、薫や酒井は「一番真面目に、楽しそうに部活に参加していたのが凪だよ。先輩に嫌がらせされたのに先輩を立てていたし、そういうところは、みんな見てたんだよ」と背中を押してくれた。

 凪はそう言われて初めて実感が湧き、耐え続けた日々が報われた感慨がじわじわと体を満たした。その一方で、香川がいない現実は、新たなやるせなさを伴って胸に迫った。部長になった今なら、彼の片腕になって部を引っ張り、一緒に夢を追えたのに……。

 だが、凪は香川の好きな言葉『一番憎むべき狂気とは、あるがままの人生に折り合いをつけてしまって、あるべき姿のために戦わないことだ』を思い返すうち、部長になった今こそ温めてきた思いを実行に移すときではないかと思った。

 自分はずっと、意欲のある部員が気持ちよく練習できる部にしたかった。その障害になる伝統は何としても変えたい。


 部長と副部長の選挙が終わると、3年は吹奏楽祭の数日前まで部活に来ない。部活終了後、部室に集まった2年は喜びを隠せなかった。

「今まで、ここまで来たことなかったよ」

 酒井が部室の奥に立って感慨深げに言った。こんな狭い部屋なのに、奥まで入ったことがないのは何とも不思議だった。

「1年のとき、ここで締められたね」薫が懐かしそうに言った。

「あれ、怖かったね。特に桐原先輩。ここに胡座をかいて、べたべたした舌っ足らずの喋り方で、髪しばる位置が高いよって」

 酒井が桐原の真似をし、どっと笑いの渦が起きた。同級生の顔には、見たことがないほどの解放感が浮かんでいた。辛い1年を共に乗り切ったことで、同級生にはかけがえのない同士意識が芽生えていた。

 凪は余計なことを言って、それを壊すのは本意ではなかった。だが、逆にこの連帯感を生かして部の伝統を変えられるのではないかと思った。

 話が裏校則に向いたところで、凪は勇気を出して切り出した。

「ねえ、私たち、先輩にうるさく言われてずっと窮屈だったよね。私達の代では、気持ちよく練習できる部にしようよ。そのために、明らかにおかしい伝統は変えよう」

 凪は皆の視線が自分に集まるのを感じ、顔を火照らせながらも、真摯に語りかけた。

「まず、自分の楽器や譜面、譜面台の出し入れを1年にやらせるのはやめよう。楽器は毎日付き合う相棒だし、他人任せにするのはおかしいよ。1年に任せて壊されても困るし」

「いいんじゃない」めずらしく部活に出ている絹江が真っ先に賛成してくれた。他の2年からも反対の声は出なかった。

 それに背中を押された凪はさらに続けた。「それから、部活中のお辞儀は、なしでいいことにしない? あれ、私達もすごい嫌だったし」

「それ、反対」ホルンの範子のりこが、ロッカーの上に胡坐をかいた姿勢で声を上げた。

「最初から甘くすると絶対なめられるよ。今は3年の先輩が締めた影響で1年がおとなしいけど、凪ちゃんはまとめる力があるほうじゃないから、なめられたら立て直すのが大変だよ。特に今年の1年は、かなりクセがありそうだし」

 範子は学級委員の常連で、小学校では児童会長も務めていた。凪よりもずっとリーダー向きだが、先輩に嫌われて票が集められなかった。

 武田や桐原を諫められなかった熊倉の姿が、凪の胸を過った。ここで譲ったら、これからずっと範子に主導権を取られそうだった。

「その分、敬語や挨拶を徹底させれば、規律は保てるんじゃない?」凪が提案した。

「うちの姉ちゃんから聞いたけど、3年くらい前に、吹奏楽部で部活中のお辞儀をなくそうとして、失敗してるんだよ」範子は続けた。

「お辞儀をなくしたら、そこからどんどん規律が乱れて、1年がつけあがったんだって。ピアノがあるとか、先生に呼ばれているとか理由をつけて、部活に出てくる1年がどんどん減ったんだって。一年が、1人ずつ時間の間隔をあけて、部活に出られない理由を先輩に言いに来て、後で合流して遊んでる時間差攻撃までしてたって。部活に来ても、1年の教室に集まって先輩の悪口言ったり、コックリさんしたり、男子といちゃいちゃしてたり、お菓子を食べてたりするようになって、収集つかなくなったらしいよ。結局、先輩が1人1人を呼び出して締めたらしいけど」
 

 凪は湧いてくる不安を胸に押し込めて言った。
「でも、1年のとき、私達いつも愚痴ってたよね。部活中、何度、意味のないお辞儀をすればいいんだって。それほど嫌だったことを後輩に押し付けるのは、進歩がないと思わない?」

「理屈ではわかるよ……」範子がぽつりと言った

「でも、感情の部分ではどうかな。私たちがお辞儀をさせられたことを思うと、1年がしないのを見たら、みんなむかつくと思うよ。1年が仮入部に来たとき、お辞儀をしないどころか、三つ編みとかポニーテールしているのを見て、私たち頭にきたでしょ? 先輩たちだって、早くから私たちに服装と髪型を解禁したくせに、実際にそうしてるのを見て、早くも文句言ってるじゃない。私達は夏休みまで、できなかったのにって。いつまた、口実つくられて締められるかわかったもんじゃないよ」

 凪は範子に心中を見透かされた気がして言葉に詰まった。恐らく、ここにいる全員が同じ気持ちだろう。

 それでも、凪は敢えて言った。「すごいわかるよ! でも、その感情を乗り越えないと、おかしな伝統はなくならないよ」

「ねえ凪、なくさなくちゃいけないの? 今の1年だって、1年間我慢すれば自由にできるんだから、それでいいんじゃない?」

 酒井が畳み掛けた。解放感を満喫している日に、なぜ敢えて対立の種を蒔くのかと、凪を案ずる口調だった。他の2年も、なぜなくす必要があるのかと腑に落ちない顔をしていた。


 凪はこの1年間で自分も同級生も、すっかり「伝統」に思考を支配されてしまったことを実感した。裏校則を守って1年耐えたのだから、今度は先輩の特権を享受したい思いはわかる。こんなことで、人数の少ない2年を初端から分裂させてしまったら、合奏が成り立たなくなってしまう。

 凪はやむなく代案を出した。「じゃ、部活中のお辞儀はそのまま続けさせて、私達も1年にお辞儀を返さない? 私達1年のとき、せめて先輩がお辞儀を返してくれたらねって言ってたよね」

「いいんじゃない。お辞儀しない子には厳しく言おうね」

 絹江が重くなった空気を一新しようと張りのある声で言ってくれた。凪は安西が持ち前の明るさで熊倉を支えていたように、自分を支えてくれる絹江の存在が頼もしかった。