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寄り道、夏の匂い

 昨年の8月、その前の月に共演したフルーティストと、演奏会当日はやらなかった打ち上げをすることになった。場所は、私の通った高校の最寄り駅がある路線で、その駅より少し先の駅だった。
 電車の時間を調べると、約束の時間までだいぶ暇がありそうだった。ちょうどいい電車に乗れないのか、と思われそうだが、私の家の最寄り駅を通る路線は、30分に一本しか電車が来ない(!)。だから、こういうことがよくあるのである。プライベートな予定なので、事情を話して、時間を少し早めたり遅らせたりしてもらってもよかったのだが、数年前から、高校時代のことが急に懐かしく感じられるようになっていて、機会があれば母校に立ち寄ってみたいと思っていたところだった。打ち上げの前に途中下車して、学校に寄ることにした。
 学校に行くのは卒業式ぶり、ではなく、卒業後に所用があって大学最初の夏休みに行って以来だった。それでも6年ぶり、十分に久しぶりであった。
 夕方、ホームに降り立って、改札へ下る階段への道を目にした瞬間、それまで回想の箱のなかで膨らんでいた懐かしさが、その蓋を押しのけて溢れ出した。階段を降りて改札を通る間に、思わず小声で「懐かしい…」と呟いたような気がする。改札を抜けて駅前に出ると、そこで当時、自転車通学の友人と別れ際に、電車が1本、また1本と発車するのをよそに、なかなか終わらない立ち話に盛り上がっていたこと思い出した(その友人とは今でも定期的に会って、文学や思想、政治、エンタメなど幅広い話題について語り合っている)。
 私は歩くのが早いのだが、この時ばかりはゆっくりと、かつて通ったとおりの道を歩いた。道が、夕日の朱(あか)に美しく染め上げられていて、回想の箱から溢れ出した懐かしさに浸されているようだった。この道を、ある日は鬱々とした気分で、ある日はあの人と会えないかなと期待しながら、ある日は楽しみなことに胸を弾ませながら、ある日は……、様々な心境で歩いたことを思い返した。
 スーパーマーケットが改装されてきれいになっていたり、学校のそばに大手コンビニチェーン店が出来ていたり(これはうちの学生に重宝がれらるだろうと思った)、6年という時間の経過を感じさせる変化にも出会ったが、当時と変わらない場所や景色を目にする度に、「ああこの公園…」などと、いちいち感傷に浸っていた。
 15~20分ほどかかる道中、9月に控えた文化祭の準備の帰りだろうか、部活動の帰りだろうか、幾人かの制服を着た現役生を見かけ、すれ違った。すると、自分も何かの用事で夏休みに「登校」しているような、今もまだ高校生の時の自分を生きている錯覚を一瞬起こした。
 いよいよ校舎が近づいてくると、高揚していた胸が、数年ぶりに恋人と再会するかのようにさらに高まりを聴かせ始めた。大袈裟な比喩に聞こえるかもしれないが、懐かしさと恋とは、似ているものではないだろうか。懐かしさとは、当たり前だが、時間という距離をある程度隔ててから、胸の裡に、いつの間にか感じられるようになっているものである。そして、その距離が離れれば離れるほど、それは募ってゆく。恋もまた、その対象と心理的・肉体的に隔たりがあるがゆえに、その思いが焦げてゆく。結ばれると、恋の感情が次第しだいに収まって、より静かで持続的な愛へと向かうのは、あるいは愛へ向かうのに困難を来し、その関係が終わってしまうのは、恋という感情が、懐かしさと同様に距離を必要としているからではあるまいか。
 もちろん、それらは「似ている」のであって、まったく同じだと言うつもりはない。ともかく私は、懐かしさを感じているときと恋心を抱いているときとの心の動き方ーー「痛み方」と言った方が正確かもしれないーーには、非常に近いものを感じるのである。
 緑のフェンスに囲まれた校庭が目に入り、ゆっくりと進み、6年ぶりに校舎と再会した。
 校舎を前に、しばし立ち尽くしていた。
 ここで出会った人、ここで過ごした日々、ここで感じたこと。その数々が駆け巡り、その駆ける速さに追いつかず、結局はただ懐かしいとしか形容できない感情に、すべてが収斂してゆく。……
 これは寄り道であるのに、なかなか校舎の前を離れられなかった。時間が迫ってきて、最後に一目、正門からの眺めも見ておきたいと思い(校庭側は正面ではなく裏)、小走りで反対へ回り、校舎の正面を眺めた。後ろ髪を引かれつつ、行きとは反対にいつもの速足で駅に戻り、打ち上げへと向かった。打ち上げは楽しく盛り上がり、久しぶりに食べた馬刺しが美味しかった。

 私はなぜか、高校時代のことを思い返すと、夏の匂いがする。炎熱のなか、汗だくになってやや長い通学路を歩き、学校あるいは電車にたどり着いて涼しさにほっと一息ついたあの感覚や、残暑のなか、その熱を上回らんばかりの青い熱と笑顔が校内を満たしていた文化祭の雰囲気などが、特に印象的に思い出される。日常の光景を思い起こすときにも、そうした夏の匂いがついてくるし、まさにこれを書いている今も、その匂いに包まれている。だから、この「寄り道」が8月であったということに、不思議なものを感じる。これを書きながら、大学1年のときの来校も夏だったことに気がついた。
 一度行ってみて熱が少し引いたかというと、これがまったくそうではなく、相変わらずふとした瞬間に思い出しては、忽ち懐かしさに引きずり込まれてしまっている。卒業に特に名残惜しさも感じていなかったし、高校生活を楽しんでいたかというと、必ずしもそうではなかったので、自分でも本当に不思議である。これこそやはり時間という距離がそうさせるのか。しかし時間が経てば何でも懐かしくなるわけでもあるまい。とすると、私は実はまんざらでもない高校時代を送っていたのだろうか。……
 そう遠くないうちに、今度は寄り道ではなく時間をとって、校舎の中も廻りたい、と思っていたが、機会を探っている間にパンデミックになってしまって、懐かしくなったからなどという理由では訪れにくくなってしまった。
 いつになるかわからないが、次に母校を訪ねるときの季節は、また夏になるだろうと予感している。

(ヘッダー画像はフリー素材より)

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