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【表現者として現代を生きる】野木青依×篠村友輝哉 「音楽人のことば」第9回 後編

(前編はこちら

ーー演奏家とモデルの共通点、エンタメ性と芸術性の両立

篠村 演奏以外の活動を始めたことで価値観に変化などはありましたか?

野木 いまは音楽活動とモデルの活動が両輪で、あとはラジオのMCを一年やったり、基本的にお話があればどんなことでも、「自分はマリンバ奏者なので…」とは言わずにやっているのだけど、モデルは、昨年の5月に、働いていた銭湯の関係で知り合った人から、イベントのビジュアルの撮影がしたいからモデルをやって欲しいと頼まれたことが始まりだった。
 (当時は)マリンバを弾いて人に届けることが最大の興味だったから、それ以外のことをするというのは想像もしたことがなかった。でもせっかく連絡をもらったし、ということでお引き受けしたのだけど、やっぱり仕事だし、「初めてなので何でもビシバシ言ってください(笑)」とお返事をして。その撮影の後、データを見たら、最初の方の写真は顔にすごく力が入っていてあまりよくなかった。「こう見られよう」、「こう映ろう」みたいなのが表情に出てしまっていた。と言うのも、そのとき初めてヘアメイクの方にしっかりメイクをしてもらったのだけど、普段目力を強くするためにつけているマスカラを一切されなくて。それが恐怖だったのね(笑)。だから、最初の方は目を大きくしてしまったりしていた。でも、中盤以降は馴れと疲れで雑念がなくなってきて、すごく気持ちいい写真になっていた。写真も、「こう見られたい」みたいなそういう気持ちがあるときはよくなくて、演奏と一緒なんだなと。演奏や音楽でも(そのことは)学んでいたけど、また違う仕事で同じことを学び直したという感じ。「こう感じてほしい」っていうのって、その人の想像の幅とか感受性の幅を狭めてしまう。受け取る側の価値観をなめているというか。
 モデルとしては服が作られた背景とか、そういう(服を作った人や写真家の)伝えたいことがあって、それを伝えるための純粋な存在としてあれたらいい作品になるのかなと思っていて。演奏家としても、音楽は音楽の素晴らしさ、マリンバの音はマリンバの音のままに聴いてほしい。表情とか目つきって、普段考えていることが出て、演奏も写真も人が出るなと思う。だから、変わったというよりは、もともと感じていたことがより強くなったという感じかな。

 野木さんの活動は、ご自身でも言われているように「ポップな」雰囲気があるけれど、僕は最近、純粋な「面白さ」、エンターテインメント性とオリジナリティをどう両立させるかーーそれも高次元で結び付けられるかというところはやっぱり大切だなと強く感じています。やっぱりエンタメ性だけになってしまうと、ただ「面白かった」で終わってしまうし、自分の話だけをし続けても、お客さんが置いていかれてしまう。僕は、クラシック音楽の世界ではあまりそれがうまくいっていないと思うことが多いんだけど、小説家とか映画作家にはその両立をうまく実現できている人が結構いるなと感じていて。もちろん、こうして今まさに話しているように、音楽界には音楽界の問題があるように、文学界には文学界の、映画界には映画界の、内部の人間だからわかる問題もあるんだとは思うけど、ただ音楽界にいる僕から見ると、彼ら彼女らの創り方には強い憧れを感じるし、学ぶべき部分が多いなと思います。

野木 「エンタメと芸術」ってわかりやすく言われるけど、その違いは効能の長さかなと思っていて。エンタメは、キラキラした、そのひとときの感情をすごく盛り上げてくれる。それも生活していくうえで大切なもの。芸術は、一瞬の盛り上がりというよりは、見た後の視界が変わる、一生その効能が続くというようなものかなと。独り言でもいけないし、エンタメに寄りすぎてしまうと、自分の声が大きすぎて相手の歓声しか聞こえない。でも私がやりたいのは会話で、自分の先に他者がいる。他者の存在を認識していることが大切だと思っています。

 「エンタメと芸術」という風にわかりやすく二分法的な言い方がされていて、僕自身も使い勝手がいいから現に今も使ってしまったけれど(笑)、その境ってどこまで明快なのかなとも思います。
 実は、僕はある時期までエンタメを軽視しているところがあったのね。今でも、質感としてはやっぱり芸術(に分類されるであろう作品)に惹かれるんだけど、でもエンタメの中にも、決して軽々しくない、例えば社会の問題をしっかり描いてるものだとか、いいものもたくさんある。特に映画やドラマをジャンルに関わらず観ていると、エンタメにもホンモノはあるなと思うね。「踏まえるべきもの」の多さは、クラシックとか純文学の方が多いのかもしれないけど、エンタメにはまた別の苦労があり、真剣さがある。それは決して、芸術をやっている人の方が苦労しているみたいな話ではない。芸術と呼ばれているもののなかにだって、批評家受けを狙っているような浅はかな作品だってあるわけだし(笑)。

野木 私は『逃げるは恥だが役に立つ』の脚本家の野木亜紀子さんをすごく信頼していて。一番好きなのは『アンナチュラル』っていう石原さとみさんが主演のドラマなんだけど、ちゃんとエンタメで、しかもちゃんと社会に対して怒っていて、すごくいい。役者さんに対するリスペクトもあって。社会に対する怒りみたいなものが、エンタメ作品になっているというのがいいなあと思う。

ーー表現活動の根源にあるもの

篠村 以前、僕がSNSに「表現者というのは、自分の中に危機感を抱えていて、表現することでそれを解決して、何とか日常を生きるためのバランスを保っている」というようなことを書いたら、それに野木さんがすごく共感してくれたことをよく覚えているのだけど、野木さん自身の言葉でそのあたりの話を聴かせてもらえますか?

野木 私が企画しているイベントとかの根底には、まだ知らない世界を知ってもらってその人の生活がよくなるようにという(ポジティヴな)思いがあるんだけど、自分自身の中には毒と言うか、絶望みたいなものがあってしまっていて…(笑)。でもそれってすごく人の生きる力を奪うものだし、それをそのままかぶりたくないというか…。
 前までは、この世は地獄だと思っていて(笑)、それをどう明るく生きるか、という感じだった。(当時は)マリンバの活動や企画の原動力が、寂しさとか居場所のなさみたいなものだった。私的な面でもいろいろあって、それがやらなきゃやらなきゃみたいな気持ちになってしまって。でもその心の損失感みたいなものを解決することはできなかった。
 (そんな時に)銭湯で働き始めて、その銭湯の3代目の方がすごく明るい人で、その人が「子供達にはこの世は天国なんだよ」ということを教えていきたいんだよねと言ったのがすごく衝撃で。そこからいろいろな人と話をしたりモデルの仕事をしたりしていくうちに、関わる人の幅が広がっていろいろな価値観を見せてもらって、逆に自分自身の価値観も素晴らしいんだと思えるようになった。そういうことが重なって、それまで原動力だった寂しさとかが埋められて、とても元気になった。満腹になったら活動できなくなるのかなとも思ったんだけど、幸せに健康に暮らすようになってからの方が、幸福度の高い活動ができている。何かを埋めるものとしての活動じゃなくて、それが溢れたものが活動になって。自分のなかに絶対追い付かれてはいけない絶望みたいなものはあって、それ(絶望や寂しさ)をストレートに出す作風の人もいるけれど、私は毒を毒のままで、寂しいを寂しいのままで出したくないというか。
 自分が自分に向き合うときに、間に何もないと難しいのかなって思う。私はそれが音楽だけど、それが人によっては絵だったり演劇だったり本だったりする。そういうものってたくさんあるんだよという提案がてきたらいいなという思いもあります。

篠村 僕自身は、基本的にどこかに何か鬱屈としたものとか、アンビバレンツなものとかを抱えている人の表現したものに強く共感するし、さっきの、芸術に触れる人の層を広げたいという話と矛盾するようだけど、世の中を生きづらいと思っている人にこそ芸術って共感されるものだと思っているところがあって。自分自身、精神的な危機感が強まっているときほど、重たい作品の方がその世界に入り込めるんだよね。「明るいものに触れて気持ちを晴らそう」とか「癒されたい」とかそういう気持ちにはあまりならい。自分の心情に近い音楽や小説に触れた方が、触れた後に解放感を感じられる。それは、まさに野木さんが言うように、他者の苦悩の表現を通じて自分の問題を見つめ直せるからだと思う。
 もちろん、芸術は最終的には人間の実存を救い出すべきだと思っていて、どんなに厳しい表現を含んでいても、それに触れることでもう一回現実を生き直そうと思っていけるものを生み出していきたいし、紹介していきたい。ただそれは、とにかく前向きなことを言っていればいいというものではないし、「人を癒そう」っていうところから始まっている表現では、人は癒せない。自分の内面的な危機に向き合ったうえでの表現だから説得力が生まれるのであって、あくまでもその人自身の内面から出てきたものでないと。

野木 聴いてもらった人のその後が幸せでありますように、触れた後の生活にいい響きがありますようにという気持ちと同じくらい、それが「自分のやりたいことか」というのが重要で、それがサービスみたいになってしまうと根本的に違ってしまう。目の前の人を信じて尊重しているから、自分自身も素直でいられる。最終的に相手に届かなかったら作用が起きないから、自分のやりたいことと人に届くようにということを、うまく縦の糸と横の糸みたいな感じでうまく編んでいって、出来上がったその布が作品(表現)になればいいなと思っています。

篠村 表現の中に、他の人が入り込むスペースのようなものが必要ということだね。何がそれに繋がっていくのかというと、一つには今の時代を生きているっていうことと自分の内面とのかかわりにどれだけ自覚的であるかというところがあると思う。自分の抱えている問題意識から出発するんだけど、それは常に時代とか環境の影響を少なからず受けて生まれているもの。だからそれは、個人的な問題でありながら、今という時代を生きている他の人(皆ではないとしても)にも無関係ではないはずなんだよね。
「僕と野木さんの活動は質感は違うけれど、重なる部分もある」ということで今回お話をお願いしたわけだけれど、まさに僕たちも互いの「糸」を編み合って、文化の「布」を広げていけたらいいなと思いました。ありがとうございました。

野木 ありがとうございました。

(構成・文:篠村友輝哉)

次回はヴァイオリニストの山縣郁音さん

野木青依(のぎ あおい)
桐朋学園大学音楽学部卒業。
自粛期間中に制作した、自身のマリンバ演奏・歌唱による2ndアルバム「踊りにおいでよ」を5月に配信リリース。音楽を通して生活を祝福するインスタレーション 「Celebration at home」を写真家/工藤葵と発表。
市民(特に親子)に向けたの演奏会・音楽ワークショップの企画に力を注ぐ。
他、演劇・映像等の楽曲制作も手がける。
モデルとしても活動。「URBAN SENTO」メインビジュアルモデル「HOUGA Short Movie」出演他。

篠村友輝哉(しのむら ゆきや)
1994年千葉県生まれ。6歳よりピアノを始める。桐朋学園大学卒業、同大学大学院修士課程修了。
在学中、桐朋学園表参道サロンコンサートシリーズ、大学ピアノ専攻卒業演奏会、大学院Fresh Concertなどの演奏会に出演。また、桐朋ピアノコンペティション第3位、東京ピアノコンクール優秀伴奏者賞など受賞。かさま国際音楽アカデミー2014、2015に参加、連続してかさま音楽賞受賞。
ライターとしては、音楽エッセイを中心に執筆している。東京国際芸術協会会報「Tiaa Style」では2019年の1年間連載を担当した(うち6篇はnoteでも公開)。エッセイや、Twitter、noteなどのメディア等で文学、映画、社会問題など音楽以外の分野にも積極的に言及している。
演奏、執筆と並んで、後進の指導にも意欲的に取り組んでいる。
ピアノを寿明義和、岡本美智子、田部京子の各氏に、室内楽を川村文雄氏に師事。
https://yukiya-shinomura.amebaownd.com/

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