見出し画像

芸術は「現実を忘れさせる」ものか?

 ずっと夢の中にいられたら、ずっと眠りから覚めないでいられたら、と思うことがある。ただでさえ、人生は辛いことの方が多いのに、昨今のように次から次へと大きな問題が社会に、一個人に襲い掛かってくる状況下に生きていると、よりその思いが強くなる。人間の心は、現代を生きるにはあまりに脆弱なのかもしれない。
 芸術に触れたいと思うことは、この「ずっと夢の中にいられたら」という願望に似ている。フランスの現代小説家、ミシェル・ウエルベックも言っているが、現実に満足していれば、本を読んだり映画館に行ったりしないだろう。
 芸術の中で、最も夢や幻想、陶酔の世界に誘ってくれるジャンルは、やはり音楽であろう。これまでにも繰り返し述べてきたことだが、私は音楽にしかない魅力(の1つ)は、他なるものとの一体感を得られるという部分にあると感じている。音楽は、現実を忘却させ、聴く者をその世界に溶け込ませる。この一体感は、他の芸術では決して(少なくともなかなか)得られるものではない。
 こうしたロマン主義的な指向性をもった作品の1つの頂点とも言うべきものに、リヒャルト・シュトラウスの『4つの最後の歌』や『あした』などがある。先日、これらの作品をジェシー・ノーマンのソプラノ、クルト・マズア指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏で久しぶりに聴いていたのだが、この状況下の中で聴いていると、やはり「このままこの美の世界に溺れてしまえたら」と願わずにはいられない。ノーマンの柔和な大気のような声で、例えば『あした』を聴いたならば、最後の突然の転調の部分で、水平線の彼方からこの世ならぬ者の声が聞こえてきて、詩に歌われている大地の息吹に包み込まれ、ついには一体となるような、神秘的な体験を得ることができる。
 他方で、芸術を求めることに含まれるこうした願望は、危険も孕んでいる。それに極めて自覚的なアーティストの一人に、いま新作『テネット』の日本公開が待たれている映画監督のクリストファー・ノーランがいる。最近、新作の鑑賞に向けて、彼の映画を観返しているのだが、例えばまさに「夢」を舞台にしている『インセプション』を観ていると、非現実(つまり、芸術や虚構)の体験が人間に及ぼす影響力の強さと恐ろしさや、現実と非現実の境がいかに曖昧なものであるかといったことに思いを致される。非現実の世界に身を置き続けていると、人はそれこそを現実だと信じ込み、現実を忘れてしまう。ノーランは、小説家の平野啓一郎さんも指摘する通り、フィクションを通してフィクションの倫理性を問うている。彼の映画が、それこそ一見非現実的に思える設定で、決して現実では得られないダイナミックな映像を体験させるエンタメ性に富みながらも、単なる娯楽映画に終わっていないのは、自分の表現が常に現実と地続きであることを自覚しているからなのだろう。
 ノーラン作品の中でも人気の高いものに、『インターステラー』という映画がある。地球が居住不可能になりつつある近未来が舞台で、2人の子を持ち、妻に先立たれた主人公の元宇宙飛行士クーパーは、人類の新たな居住地を求めて再び太陽系を超えた宇宙へ飛び立つ。しかし、地球に帰還できる保証はなく、しかも、宇宙(あるいは他の惑星)と地球では時間の流れ方が異なり、宇宙の方が進みが遅い。ミッションを早く終えなければ、人類が滅びてしまうーーつまり、家族に二度と会えなくなるのである。愛する娘と息子ーー映画ではとりわけ、父娘の関係に重点が置かれているーーを地球に置いて旅立ったクーパーは、「人類か家族か」という問いに、劇中、何度も苦悩する。
 この、地球が居住不可能になりつつあるという設定や「公か私か」という問いもまた、映画の中の話に終わることではない。それは虚構どころか、私たちの生きる現実世界で、いま、切実に問われている問題である。
『インターステラー』は、クライマックスで、この問いに(抽象的な)答えを与える。未見の人のためにネタバレにならない範囲で述べると、それは、両者はどちらかを犠牲にしなければならないものではなく、両立可能なのではないかーーつまり、真に「公」のためになることは「私」のためにもなり、真に「私」のためになることは「公」のためにもなるはずであり、そして、その両立を可能にするものは「愛」である、というものである。
 両者を結び付けるものが「愛」であるという、本作のメッセージの核となるものが、地球を飛び立ったクーパーが宇宙の果てに辿り着いたところで提示される。そこからは、内面のみを見ていては生きられず、意識を外に向けることで得られるものがあるという、この映画のもう一つの主題が読み取れる。
 シュトラウスの音楽のような、耽美的で超越的な表現も、人間の精神にとって欠かせないものである。しかしそれとて、現実世界の鬱屈感からの解放を希求する心性の反映であり、現実と無関係ではない。表現者は、自らの内面を見つめる一方で、今の時代に何が起きているのかに目を向け、自らの表現がその中でどのような意味を持つのか、どのような影響を与えるのかということに自覚的でなければならない。
 そうでなければ、人間の脆弱な心を本当に救済しうる非現実は、創造できないだろう。    

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?