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いのちを吹き込む音――寿明義和の配信演奏会

 演奏家の手によって、単に楽譜に書かれたことが「再現」されるだけでなく、そこにいのちが吹き込まれて初めて、聴く者は作品及び作曲者と出会うことができる。よく、「演奏家は作曲家の僕(しもべ)でなければならない」というような言葉を耳にする。言わんとしているところには異論はないし、共感もするが、しかし演奏家の担うその役割の大きさに改めて思いを巡らせると、演奏家の存在は、決して作曲家よりも下位に属するものではないように、私には思える。

 恩師であるピアニスト、寿明義和先生の演奏を聴くといつも、演奏家の役割とはこういうことをいうのだと実感させられる。配信演奏会も珍しいことではなくなってきたが、先生もこのほど収録によるそれを行った(配信期間は10月25日~11月1日)。曲目は、ベートーヴェンの「傑作の森」と呼ばれる時期に作曲された作品で構成され(幻想曲作品77、ソナタ第23番「熱情」、同第21番「ヴァルトシュタイン」、アンダンテ・ファヴォリ)、演奏会には「~新しい道を~苦悩の底からの希望への模索 250年前にドイツに生を享けたベートヴェンの場合」というタイトルが付されている。
 間違いなく、今後の人生において、この配信を幾度となく振り返ることになるだろう。音そのもののまろやかで熱を帯びた煌き、音楽が今まさに「生きている」と感じさせる鮮やかさ、ピアニスティックな色気、いかなるときも失われない歌心、あるべき音をあるべき場所に定着させる知性、自らが作品世界内で大胆に羽ばたくことを可能にする、様式への深い理解……。それらが結集して、音楽以外では決して感じられない種の心の顫(ふる)えに、聴き手を導く。
 やはりメインの2つのソナタ、第23番「熱情」と第21番「ヴァルトシュタイン」には、別して心を打たれた。
「熱情」ソナタの冒頭、先生は神秘的なまでに透き通った音色と、リズムと休符の厳格さとによって、異様に膨れ上がった緊張を孕んだ闃(げき)とした空気を立ち昇らせる。その静寂の膜は、激情が吹き上がる場面においても貫かれる。すべてのモチーフが丹念に、しかも感情や精神の発露として彫琢されてゆく。第2楽章での内省は、変奏の度に音を細分化させ、何か崇高なものへ手を伸ばしているかのように音域を高くしながら、静かな昂揚感と共に高みへと昇ってゆく。その過程を先生は、厳粛さと優しさとが溶け合った光輝のなかで、丁寧に描いてゆく。そして第3楽章での滾るエネルギーがコーダになだれ込むと、自らの存在のすべてを賭しているような気魄で音楽を炸裂させる。その奔流がすべてを呑み込み、曲が終わってからも、ヘ短調の深甚な響きが胸に谺(こだま)していた。
 続く「ヴァルトシュタイン」ソナタでは、力感が弛緩することなく貫かれるなかにも、あたたかさが滲んでいた。それは、先生の手によって、和声の力学やリズムが、ベートーヴェンの生の鼓動の反映として蘇っているからだろう。一転して、転調を重ねながら心の深部に沈潜する第2楽章。深いバスが、大地の息吹のように全体を包み込む。そしてその最後の高いソの音を、先生は雲間から差し込む光のように空中に放った。その光をきっかけにして次第に雲が晴れてゆくなかから、ハ長調の旋律が降り注いでくる(第2楽章主部、あるいは第3楽章)。それは次第にこの世界に生きる人間の心から湧き上がる賛歌と重なり、力と輝きとを漲らせてゆく。「熱情」が大きな一つの問いであるなら、「ヴァルトシュタイン」は絶対的な肯定であろう。そしてそれは、先生の演奏の根底に流れているものでもある。
「熱情」が顕著だが、ベートーヴェンは、それ自体が生きるということであることを証明するかのように、常に「なぜ生きるのか?」という、人間のあらゆる苦悩が収斂する問いに、音楽を通じて向き合い続けてきた。そして、最後には常に、やはり音楽によって生それ自体を無条件に肯定した。その大きく力強い精神に、先生の演奏を通じて改めて出会い直すことができた。

 何年も前のことなので、正確ではないかもしれないが、レッスンで先生が言われた「音楽は進んでいくものだけれど、本当は、その音をいつまでも聴いていたいという思いがある。そこに音楽の魅力がある」という言葉が忘れられない。それどころか、この言葉は、今や私の音楽観の基礎のある一部分を形作ってすらいるように思う。それだけ一つ一つの音を慈しんでいるから、先生の打鍵はそのまま、単に音を発するだけでなく、音にいのちを吹き込むことに繋がるのだろう。
 先生が音にいのちを吹き込むとき、その音によって、私の心にも、いのちが吹き込まれる。

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