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後ろ姿、時についてのスケッチ

 高校からの帰途に見た、改札を出て駅前の予備校に向かうセーラー服の女子クラスメイトの後ろ姿が、時々、ふと脳裡に浮かぶ。
 自他共に認める「変わり者」の、恐らく話し掛けやすそうには見えなかったであろう私にも、同じクラスになって間もない頃から、「おはよう」と言ってくれた、明るく、さっぱりとした人だった。席が近くなることなどが多かったので、よく話した。私は古文が得意だったので、試験前や課題のあるときには、それについて尋ねてくれたこともしばしばあった。卒業式以来、一度も会っていない。
 当時、彼女のことを、はっきりと好きだと思っていたわけではない。しかし実を言うと、今だから認められるが、何となく惹かれているところがあるのは感じていた。
 脳裡に映し出されたその後ろ姿をじっと見つめていると、それが、現在に染み出して、時の境目を曖昧にしてゆく。
 過去の光景を思い浮かべるとき、「今の自分」が、それを「見て」いると言えるだろうか?
 そうであるならば、「当時の彼女」に惹かれているのは、「今の私」だということになるのだろうか? だからこそ、「今だから認められる」のだろうか?
 私の中の彼女の像は、高校時代で止まっている。とすると、私にとって、「今の彼女」と「当時の彼女」は、何が違うのだろうか?
 勿論、こんなことは、単なる夢想、記憶の遊びのようなものに過ぎず、ただ彼女のことと、当時の私が彼女にどこかで抱いていた感情を、懐かしく思い出しているだけだと言ってしまえば、それまでなのだが……。
 懐かしさは、人の心を最も大きく揺さぶる感情の一つだと思うが、それには、恋心にどこか似ているところがあって、ずっと考えていると、余計にどちらの私がそう感じている(いた)のか、わからなくなってくる。
 もし、今、彼女に再会したならば、私は、今度こそ本当に彼女に恋するのだろうか?ーーさすがにそうは思わない。確かに「世の中に絶対はない」が、その可能性は、やはり限りなく低いと思う。
 それにしても、彼女の記憶は他にもあるのに、なぜ特にあの後ろ姿が思い出されるのだろう? 懐かしさや、そこはかとない名残のようなものといった、去ってしまったものへの想いが、「去っていく姿」に投影されているのだろうか。
 あの後ろ姿に呼びかけた、あり得たかもしれない別の過去が、過去と現在が溶け合う中に、揺曳している。

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