目指せ出版! 日本史のセンセイと行く全国制覇の旅4 貝塚と指紋

 縄文時代の話をもう少し。縄文時代といえば? と聞かれて多くの人が答えるのはやはり貝塚と土偶ではないかな。ここからはまず貝塚の話をしていこう。

 ぼくの住んでいる千葉県は貝塚の数が一番多い県で、その中でも特に有名なのは世界最大規模の貝塚である加曽利貝塚です。ここには千葉市立加曽利貝塚博物館があり、貝塚の一部を当時の姿のまま見学することができます。
 先ほど土器のおかげで食生活が向上した、と説明したけれど、土器は便利なものだけれど、遠くまでいちいち運ぶのにはかさばるし重いよね。そこで人々は定住をするようになり、集落を作った。その中の大きいものが三内丸山遺跡だけれど、小さな集落は全国にたくさんあったと考えられる。そこで人々はより暮らしやすいように、環境を整えようとしました。それが貝塚の始まりです。

 およそ2000年間分の貝がらの層が積み重なっている加曽利貝塚。貝がらにはカルシウムが豊富にふくまれています。そのカルシウムが作用しあって貝がらだけでなく動物の骨なども状態よく残っているんだそうです。人間といっしょにイヌが葬られていたとのことで、人間とイヌとの関係を考えるうえでも興味深いよね。

 貝塚は縄文時代のゴミ捨て場なのだけれど、古い時代の貝がらは大きさがバラバラにたい積しているらしい。反対に時代が新しくなると貝の大きさが同じくらいになるんだとか。これ、何でだと思う? どうやら大きいものも小さいものも全部食べていたところ、貝が取れる量が減ってくることが分かったらしい。つまり小さいものは食べずにおくことで、資源としての貝を計画的に取ることができるようになったということだ。当時の人の経験則だけれど、何千年前のことだと考えるとすごいなぁと感心してしまうね。

 加曽利貝塚のように注目するべき貝塚はほかにもあって、東京都の大森貝塚も有名だ。明治初期に来日したお雇い外国人のエドワード・モースが、東海道線の汽車に乗っているときに、偶然に断層を発見した貝塚だね。モース自身は考古学者ではなく、日本に「進化論」を紹介した動物学者なのだけれど、彼が発見・研究したこの貝塚が日本の考古学をスタートさせたということで、重要な遺跡になっています。モースは発見した貝塚の位置についてくわしく書き残さなかったそうで、現在「大森貝塚の碑」は品川区と大田区の二つに建てられていますが、品川区には大森貝塚遺跡庭園があり、近くには品川区品川歴史館があります。大田区の石碑も近くですぐに見に行けるので、歴史館を見学してから二つの石碑を見に行ってみよう(最寄りのJR大森駅のホームにも「日本考古学発祥の碑」が建てられています)。

 大森貝塚にはこぼれ話が一つあります。モースが研究のために貝塚に通っているとき、それを手伝っている彼の友人がいました。その友人、ヘンリー・フォールズは明治時代に来日し、「健康社」という病院、現在の聖路加国際病院の前身を作った医師でした。フォールズはモースから見せてもらった縄文土器についていた指紋に注目しました。「縄文時代の指紋も、現代(明治時代)の指紋も大きく変わっていない」と。
 そこから彼は指紋の研究をはじめ、子どもの指紋が成長とともに変化しないことや、同一の指紋がないことなどを確認して「nature」に発表しました。1880年のことです。これが今や子どもでも知っている捜査方法となった指紋研究の始まり。現在、聖路加国際病院の近くに「指紋研究発祥の地」の小さな石碑が残っているので、興味のある人は探しに行ってみよう。

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