目指せ出版! 日本史のセンセイと行く全国制覇の旅17 古戦場を見に行く
貧富の差・身分の差がなかったころから時代が進み、食料を保存できるようになったり、農作業における指示命令役が出てきたりすることで身分の上下が生まれるなどして、人々は集団で争うようになった。つまり「いくさ」の始まりだ。縄文後期~弥生時代の遺跡から発掘される甕棺墓(かめかんぼ、大きな甕に遺体を入れて葬る墓)からは、首のない人骨や矢が刺さった人骨も出土している。そうして人々の集落は少しずつ大きくなっていくわけだけれど、戦いの跡、つまり古戦場はその性質からいって後の時代に何か証拠が残るものではない。せいぜいその場所に行って、昔をしのぶくらいしかできることはない。ぼくも長篠に行ったときには石碑と馬防柵しかなくて、それでも歴史好きはその瞬間がたまらないのだよね。「〇〇古戦場跡」という石碑があればいつでもタイムスリップができる、という人はマニアック史跡巡りに向いていますよ。
ではぼくが行ったことのある古戦場をいくつか紹介していこう。まずは源平合戦から。平清盛を中心に「平氏にあらずんば人にあらず」といった横暴を平氏一族が極めるなか、後白河法皇の皇子・以仁王(もちひとおう)は全国の反平氏勢力に対して、挙兵をして平氏を倒すことを命令する文書(以仁王の令旨(りょうじ))を出します。これに呼応して関東で挙兵したのが源頼朝で、信濃国で挙兵したのが源義仲(木曽義仲ともいう)。頼朝は石橋山の戦いで敗れたものの、富士川の戦いで平氏に勝利。この二つの古戦場にはそれぞれ石碑が建っているらしいのだけれど、ぼくは行ったことがないから省略ね。
平氏を京都から追い出し、「おごる平氏も久しからず」の雰囲気が出てきたのは、源義仲の北陸道での勢力拡大が大きなポイントとなっています。それが倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦い。越中(富山県)加賀(石川県)の国境にある峠での戦いです。当時二年続けての凶作で都は食糧事情が悪化、平氏は都への食糧調達を維持するためにも、北陸を確実に勢力下に治めたい状況でした。4万とも7万とも言われる平氏軍に対し、義仲は平地での戦いではなく山中での戦いを選択。ここで取られた作戦が「火牛の計」です。夜中、義仲軍は多くの牛を集め、角にたいまつを結び付けてそこに火をつける。そうすると火への恐怖で興奮した牛たちが雪崩を打って山を駆け下りました。これに驚いた平氏の軍勢はあわてふためき逃げ惑うばかり。ついには断崖絶壁に落ち込んで、ほぼ壊滅状態となりました。
この勝利に乗じて義仲軍は都に入り、平氏一門を追い出して一時的にしろ政権を握りました。義仲軍は入京(都に進軍すること)してからその行動で治安を乱し、後から都にやってきた源頼朝の弟・義経が率いる軍勢に敗れました。
現在の倶利伽羅峠には古戦場を示す石碑が建っているほか、「火牛の計」を示した牛のモニュメントが建っています。しかしみなさんもうお気づきでしょうが、この「火牛の計」はマユツバものですよね。まず山の上にそんなに多くの牛を集められたかどうかが疑問。そして角に火をつけると言っても、同時に火をつけることは不可能に近いと思われるので、何十頭もの牛がいっぺんに走り出すことは難しい。だから実際にはこれは「平家物語」を作るうえでの創作と考えるのが妥当ではないでしょうか。富士川の戦いのときには水鳥の羽音でも逃げ出すことがあった、というくらいですから、本当の闇の中では大きな声や音を出しながら突っ込んでくるだけで相当怖かったのでしょう。
義仲の墓は現在、滋賀県の義仲寺(ぎちゅうじ)にあります。江戸時代の俳人・松尾芭蕉は義仲のファンだったようで、「私が死んだあとは木曽殿(義仲)のとなりに」という遺言を残していました。そのため義仲寺には松尾芭蕉の墓もあるのです。
【鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし】
義仲を倒した義経軍は、西に逃げていた平氏軍を追討します。一ノ谷の戦い(兵庫県)です。須磨の浦に陣地を張った平氏軍を攻撃するために義経は、山中の難路を進み、平氏軍の裏手にあたる断崖の上に出ました。地元の猟師の説明によると、人や馬では降りられないほど急な崖だとのこと。あきらめるかと思いきや義経は
「鹿はこの崖を降りられるか」
「鹿が降りるのは見たことがあります」
「鹿ができるなら馬にもできよう」と言って味方を鼓舞し、崖を駆け下りて平氏の陣に駆け込んだという。このとき畠山重忠という武将は馬をケガさせることをしのびなく思い、自ら馬をかついで崖を駆け降りたという話が残っています。
総崩れになった平氏軍に追い打ちをかける義経軍。海のほうへ逃げようとする平氏の身分の高そうな武者を見て、義経軍の武将・熊谷次郎直実は
「逃げるとはひきょうなり。戻ってきていざ勝負」と声を掛けます。一騎打ちとなった二人。しかし歴戦の強者・熊谷は相手をむんずとつかんで馬から引きずり降ろし、さあ首を取ろうと思った瞬間、その相手は自分の息子と同じくらいの年、十六七の若武者であった。自分の息子が軽いケガをしただけでも自分は胸が張り裂けそうなのに、この若武者が討たれたと聞いたら親はどれだけ悲しむだろうと思った熊谷は、
「お名乗りください、助けて差し上げます」
「名乗らずとも首を取って周りに聞いてみるがいい。きっと知っている者がいるはずだ」
というやり取りがなされます。熊谷がふと後ろを見ると、味方の軍勢が迫ってきています。
「ことここにいたってはお助けしたくてもできません。せめて他の者の手にかかることなく、私が首をお取りいたし、生涯をかけてご供養いたします」と言って泣く泣く首を取ったとのこと。のちにこの若武者は平清盛の甥・平敦盛と判明。持ち物の中からは「青葉の笛(小枝(さえだ)の笛とも)」という笛が出てきて、陣中でも笛を携える風流さに感動します。人の世の無常を知り、武士として生きていくことに嫌気がさした熊谷は、出家して浄土宗の開祖・法然の弟子となります。その熊谷が出家を決意した場面でうたわれる幸若舞(こうわかまい、中世から近世にかけて流行した芸能)の一節が、織田信長の愛した
「人間五十年 下天の内をくらぶれば、夢幻(ゆめまぼろし)のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」です。桶狭間の戦いに出陣するときに舞った、というのが名シーンです。
現在は神戸市の須磨浦公園に石碑が建ち、また敦盛の胴塚があります。近くの須磨寺には「源平の庭」という庭があって敦盛と熊谷の像が建っています。また青葉の笛も見ることができますよ。
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