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(近代)都市計画の歴史を整理してみた#01

さて、さっそくまとめていきましょう(前回の前書き→#00

(1)日本近代計画のはじまり(1888〜)

日本の近代都市計画を巻き戻していくと大政奉還から明治時代に突入した1868年近くまで戻ることができます。そして、今回のテーマである法整備としては、それから20年が経った1888年に東京市区改正条例として実を結ぶわけですが、そこまでの経緯を簡単に振り返ってみます。

1.東京市区改正条例制定までの流れ
 大政奉還後の日本(特に江戸)は江戸時代の都市構造をそのまま引き継いだ状態で近代を行われたので、道路や上下水道などの基礎インフラの基盤が脆弱でした。この脆弱性は都市に伝染病の流行・大火の発生などの衛生環境問題を引き起こします。また、様々な機能の都市への集約が都市の過密を生み、交通問題なども引き起こしました。
 こうした課題を解決するために都市を計画的に整備することが必要となり、「都市計画」の登場というわけです。実際に市区改正時代の「都市計画」の役割を東京市区改正条例の前文では、

朕東京市ノ営業衛生防火及通運等永久ノ利便ヲ図ル為メ東京市区条例ヲ裁可シ茲(ココ)ニ之ヲ公布セシム
(出典:国立国会図書館デジタルコレクション 東京市区改正法規)

となっており、法整備をする目的が衛生問題や交通問題をどうにかするためのインフラ整備が重要であることが見て取れます。

2.条例制定の背景にある仮案
 
この市区改正条例が制定されるに当たっては、当時の松田道之知事の東京中央市区画定之問題という文書が市区改正の草案であると考えられています。これは1880年の府議会閉会に発表されて、新聞にも載りました。そこには東京を中央市区にするために整備するべきことが書かれており、大まかに5つ(①公共施設の配置計画、②都市基盤整備計画、③防火対策計画、④海岸埋立埠頭築造、⑤工場や市場などの立地制限)の事項が書かれていました。
 1880年に都市問題が提案となり、1884年には当時の東京府知事芳川顕正の提言で東京市区改正意見書が出され、最終的に1888年に成立するので、約8年間の歩みでした。大きな枠組みは松田知事の素案をもとに作られてはいるようです。

 簡単に振り返るとこんな感じになりますが、上で分けたように衛生問題と交通問題については、それぞれに現状の問題や欧米から技術輸入などストーリーがあり、特に衛生問題に関しては、コレラや天然痘といった感染症と衛生行政の戦いがあり、今の情勢にも通じるものがあるように思えます。

(2)市区改正から旧都市計画法へ(1888-1919)

1.市区改正から旧法制定
 
市区改正は日本にとって初めての都市全体を計画するための”事業”でした。1889年に条例をもとに「東京市区改正設計」が作成され、事業規模や予算規模によって、緊急性の高い事業を対象とした「新設計」が作成されます。最初の設計から最終的に実行された設計との間には、重要地区を集中的に開発し、近代化させたいという大蔵省・外務省と、東京全体の都市構造の再編を行い、都市基盤インフラを整備したい内務省・東京府の対立があり、財源不足により東京全体の再編は持ち越しとなります。(実現したのは、日比谷公園、日本橋大通りの拡幅、東京駅)これは個人的な感想ですが、この時東京全体の都市再編が完遂していれば、関東大震災での被害もある程度少なくすることができたのではないかと思ってしまいます。

2.旧法制定の背景にある研究会
 当然ながら旧法は、1919年に突然出来上がったわけではありません。市区改正同様、制定前に制定に向けた様々な動きがあってこそ成立にこぎつけています。まず1916年に後藤新平を会長に、佐野利器や池田宏などによって都市研究会を結成し、月刊誌「都市公論」を通して都市政策や都市計画について普及啓蒙活動を行います。この流れで、関西建築協会の片岡安の呼びかけに佐野利器が応じて、都市研究会・建築学会の三会共同で都市計画法と市街地建築物法(建築基準法の前身)の成立に向けた運動を開始します。そして後藤が賛同する形で、都市計画法を審議する機関である都市計画調査会の設置をその年度の予算審議が終わっているところで追加予算として組み込み、都市計画法制定を約束させます。ここでも、内務省・大蔵省などの間での調整を後藤は買って出て周りを動かしていました。(※1)
 その後都市計画調査会は12回の審議を経て、法案して成立します。しかしここでも大蔵省からの圧力があり、都市計画財源などで審議がまとまられずに成立してしまいます。実際都市計画事業の独自財源は認められず、道路は道路法から河川は河川法からの国庫補助ということになりました。
 独自財源がないということは、震災や戦災復興のような事態でない限り、都市計画に国からお金が補助されるというはないということで、都市計画を国や自治体がスピーディーに大胆に進められる体制とはなりませんでした。この影響なのか、区画整理などが主流にならざるをえませんでした。

・・

次は、旧法制定から関東大震災の復興、戦中、戦後の復興ぐらいまでをまとめられたらと思っています。

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(fig1.年表_1880~1919)


追記出典:「後藤新平」 著越澤明  ※1

→→→(近代)都市計画の歴史を整理してみた#02

・・・

※番外

東京市区改正条例制定の1888年~旧都市計画法制定の1919年までの時代は、都市計画が都市の基礎インフラ整備であったり市街地形成のルール作りが主だったわけだが、まずは東京に適用され、その後京都や大阪、横浜などに準用されました。このことについて、同時代の人口及び人口密度との関係性を軽く考えてみました。

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データの出典はwikipediaなので、信憑性には欠けますが、市区改正が行われた1888年時と旧法が制定した1919年近辺(都道府県の面積が統廃合で変化があるため、面積のデータがある1920年を採用)とで比較してみました。また比較した5都市は旧法が制定される前に市区改正が準用された都市で比較をしています。
人口と面積だけでは都市問題に発展しているのかどうかがわからないので、ここから人口密度を算出し、この5都市に関して1920年と1888年とで、その変化を比較してみます。

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簡単に比較ですが、全国平均で1.41倍、神奈川県は2.16倍、大阪府は2.05倍と約30年が人口密度が大きく増加していることがわかります。

人口密度というわかりやすい指標においても、全国的に都市化が進んでおり、特に旧法が制定される前に条例の準用が認められた5都市に関しては、大きな増加が見られます。簡単ではありますが、都市計画の法整備を必要性をこの時期に(始まったことではないかもしれませんが)高まっていたのではないと思われます。

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