見出し画像

「蒼天の王土」刊行記念・隼鷹徒然(6)

「天涯の楽土」取材旅行 2013年5月
3日目: 佐賀 吉野ヶ里遺跡

吉野ヶ里を訪れたのは土砂降りの日でした😅 地面は洪水状態。

画像1

吉野ヶ里の環濠集落の成立時期はちょっと思い出せませんが(資料のどっかには推定されているはず)、弥生時代中後期から古墳時代初期かと。つまり紀元前後ですね。ところでこの紀元って表記変ですね。西暦0年を紀元て言うの、なんでだろって思いません? 日本暦にするとポリティカルにめんどくさい論争が起きるのでとりあえずキリスト紀元の西暦なわけでいいと思いますが、日本の紀元でいいじゃん、って思ったりもしたり。

でもそうすると「日本」の国号を制定した年代が特定できないので無理があったり。日本書紀が書かれたあたりでいいと篠原は思いますが、諸方を納得させるのはハードルどころかオリンピック級棒高跳びですし。

でも飛鳥奈良時代あたりを日本起源にすると一気にキリスト紀元より短くなっちゃうので悔しいし、皇紀だと歴史的根拠がですね😓

神武紀元の皇紀もまた、厨二心を刺激されて楽しいのですが、篠原は出雲勢なので異論があるわけでして。

画像2

弥生時代の一般的な住宅竪穴式住居。作中では「伏屋」と呼んでいます。どうしてそう命名したのか8年前の篠原に小一時間くらい問い詰めてみたい。

内装は地下へ1メートルほど掘り下げて(竪穴式)その上に藁葺屋根(藁だったり萱だったり、草だったり)をかけて出来上がり。

画像3

日本では敷物は植物繊維か毛皮くらいでした。床は土間だったのかな。オープン1DKな感じです。

画像4

偉い人たちが住んでたり政治とか宗教的なことをしていたらしい高楼。

画像5

ちなみに下は秦の阿房宮・紀元前3世紀。徐福たちは↓から↑に移住したわけですからね。なんてことをつらつら考えての吉野ヶ里逍遥でした。

画像6

当時の機。かなり幅のある反物が織れそうです。当時は貫頭衣だったので、一枚で身幅をカバーできないといけない。男性はローマのトーガみたいに体に巻き付けていたそうなので、かなりゆったりした布地だったのでしょうか。

画像7

画像8

環壕と柵で集落を囲っていた時代。特に北九州の墳墓からは戦死と思われる遺体が多数出土しています。

「倭国大乱」

隼人と鷹士の時代よりも数世代降りますが、また機会があったら古代史ベースの物語を綴ってみたいと思っております。

「天涯の楽土」取材編はここまで。

カドカワオンラインストア ⬇️ネットでのご注文はこちら

「天涯の楽土」 文庫版
「蒼天の王土」 単行本(四六判)

画像9


よろしければサポートお願いします。いただいたサポートは文芸関連のイベント費用、取材費などに充てさせていただきます。🙇‍♀️