誰だって完璧ではないことを自分に言い聞かせてる


#推薦図書

昨年クリスマスすぎに体調崩して年末・年始寝込んでいました。
38度台をうろうろ、嗅覚完全にない。味覚はすこしだけ、ある。
必要な買い物はすべて家族にお願いし、布団とトイレ、食事場所を行き来する日々。
年明けに会社がはじまる直前の週末に京都市のコロナ関係相談所に電話してみたら
「状態をきいていると、回復にむかっているようなので週末の救急にあえて行かないほうがいいと思われる。熱が下がらないようなら、週明けに仕事は休んでかかりつけ医に相談してはどうか」
とPCRのピの字もでませんでした。

勤務先の社長に相談したところ、市販の「抗原検査キット」というのがあるということで
それを購入、テストしてみたところ陰性でした。

熱もぎりぎり下がったので、年明けから出社しましたが
熱は下がったものの、身体はふらふら。
それからじわじわ元気になってきて、3週間たったいま、ようやく普通に近い体調に戻ってきたけれど、いまだ喉痛く、嗅覚もどらぬまま。味覚はすこし、戻った。

嗅覚もどらないから、料理つくれな~い。
と思ったけれど、身体が元気になってくると、カンで味付けして料理する気力は戻ってきました。
ただやはり、嗅覚と味覚が乏しいもんで、つくったもの食べてると夫から
「おいしい。けど…塩からくない?」
と言われても、ぜんぜんわからん。

においで冷蔵庫に長いこと置いてるものがまだ安全か、もういい加減捨てたほうがよいかも判断できん。
嗅覚って、生きていくうえで大事なのね~、と実感している毎日です。

そんなところへ、以前noteの読書感想文投稿コンテスト「#読書の秋2020」で買った課題図書
「目の見えない人は世界をどう見ているのか」

をようやく読み始めました。

なんつうか、研究者であるせいか
全方位的につっこまれないようにしながら注意して注意して書いてる感がちょっとおもしろくなくもあるのですが、目の見えない人の「見かた」「感じ方」を目の見えるひとと対比しつつ丁寧に書いてあってわかりやすい。

まだ途中なのですが、「見えないから工夫すること」について自分なりに考えてみた。

「見えない」にかかわらず、自分の不具合のあることをどのようにカバーするか、という工夫について。

たとえばいま、わたしは嗅覚がほぼない。
料理するのに不便だし、いろんな香ばしいかおりをかげずに悲しい。
嗅覚がいつかはもどってくれることを期待しながらいまは記憶やカンを頼りに料理している。

目も悪い。
小さいことからとんでもない近視で、いまは眼鏡の技術も進んでいるだろうが
昔はそれこそ牛乳瓶の底のような眼鏡をかけて、はずすと30㎝先はもうぼやけていた。
30歳直前くらいにレーシックをして、劇的に世界が変わったけれど
それの副作用で、夜は鳥目がひどい。光もハレーションがすごくて
夜の自転車行はかなりの冒険。
また、年をとってきて老眼もはいり、また左目の近視も進んできて
日によっては、パソコンの画面が朝はほとんど見えなかったり。
眼科にいくと
「もういい年だし…、むしろ、老眼と近視がいい感じでせめぎあってますよ」
などと言われる。

数年まえ、知人がやっている映像系のギャラリーに見学にきたNY在住の映像作家カップル、
普段はサイエンスライターもしているというロバートさんが
「僕は右目が乱視で、でも、左目が3D(立体)で右が2D(平面)で見えるだけで、おもしろいよ」
と言っていたのが印象的。

わたしたちは…すくなくともわたしはつい、親からたたきこまれた
「完璧でなければ」の呪縛にさらされている。
けれど、その親の「完璧」だって、かなり歪んだものだ、といまになって思う。

だから、「完璧」である必要はないんだよ、じぶんのできることをうまく使いながらやってけばいいんだ。と言い聞かせているこのごろ。

この本を読んでいると、いままで使っていなかったじぶんの身体、器官、能力をまた見つけて伸ばしていけそうな気がしてきて、続きを読むのがたのしみだ。

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