声の通る人通らない人
RTはしなかったのだが、今日、こういうツイートを見かけた。
なかなかこれは身につまされた。自分も声が通らないからだ。
ガヤガヤしている店だとやけに通らないので、3割増しで疲れてしまう。そういう店にはできれば行きたくないと思う。
通らないのは声質の問題、というのが一般的な解釈だと思ったが、これを「コミュ障」というところに着地させるのは面白い。そうかもしれないと思わせるものがある。
しかも現代は特に、コミュ障かそうでないかは重大事案たり得るのだ。
大声を出しているつもりだけれど、周波数が合わないが如くに妙に相手に伝わらず、疲れる。これが、周りがガヤガヤしていない場所であれば大丈夫だが、雑音を押しのけてそれなりに大声を出さなければならない状況に弱い。
注文を取る時などは、特に疲れるので誰かに任せてしまう。注文に向いている発声の人というのがいるのだ。あれはコミュ強だったのかな。
という意見もあった。まあ、そうかもわからない。
自分も10回のうち10回通らないというわけではなくて、不思議と周波数の合うようなタイミングはあったりもするのだが、そこでの実感は「声量の問題ではないな」というものだった。
声を張り上げなくても通る時は通る。声の出し方かもしれない。呼吸というか、姿勢の問題というか、伝えたいという意志が上手く声に乗っているか乗っていないか。
話しているのに通らない時って、徒労感がすごいし、気持ちがちょっと折れてしまう。だから話すのが嫌いになっていく。成功体験の逆だよね。小さく挫折のようなものを積み重ねている。
まあ、そうではない人もいるようで、
という意見もある。
人間には本当にさまざまなタイプがあるので、法則のようなもので綺麗に分類できるかというとそうでもない。
例えばコミュ障だからといってそれがどうなのか、という言い方もできる。
人は誰しもが広範囲なグラデーションの中にいる。自分のポジションが気に入るも気に入らないも、気持ち一つだ。むしろ、人は自分を分類して安心したい存在のようにも見える。
でも分類すること自体にはあまり意味はない。
大事なのは自分の偏りをよく知り、どう自分を活かすかを考えることだ。
ちなみに、表記について。
RTは「RP(リポスト)」、ツイートは「ポスト」だと思うが、個人的な好みにより旧体制的な表記とさせていただいた。相変わらず私は「X(エックス)」とは呼ばない男である。
やぶさかではありません!